曹洞宗のお寺さんの法話を聞く機会を得た。
 「私達は普段自分の身体を勝手に使っています。『静かにしていなさい』『動くな』ということは大変なことです。法話を聞くという時間は不自由なことです。ですから、精一杯話します。堅い話もしますが、大事なところは分かり易く話すように努力します。」と宣言されてから法話は始まりました。
 坐禅とは、身体を大自然の営みと同じサイクルに帰すこと。下手な考え休むに似たり、というが、脚を組んで、手を組んだら何もできない。右から入って左へ流れて行く。左から入って右へ流れて行く。
 それができない。
 それは、思い込みが強いせいである。
 右から左へ、左から右へ、大自然の営みに…。
 地球儀の日本、愛知県、碧南市の上に座っている気持ち。
 力を抜けばホッとする。
 拳を握れば、喧嘩。手を開くと周りが見える。周りが見えると立場がわかる。立場がわかると何をやれば良いかがわかる。
 約1時間のお話だったが、一般には分かり易いであろう、しかし宗教的にはどうしても矛盾が出てくる。
 例えば「幸せとは、どういう状態か?」という問いに、「幸せは仕合せとも書ける様に、誰かに何かをやってあげたときの満足感だ」とはっきり言ってしまうのだ。一般には分かり易いであろう。でも自分には???である。「愚かさとは物を知らないこと、被害者意識を持つことである」とはっきり言ってしまうのだ。これも自分には???である。食事で生き物のいのちを頂くときも、そのいのちを頂くからにはさらに高い価値を目指さないといけない???。食べることにも真剣でなければならないので話をせずに食べなさいと指導する。
 いろいろな考え方があるのだなぁと思った。わからなくもないが。

「何を目的に生きているのですか?」との問いに、宗教が生きる道筋を教えてくださる、と言う。そう、人間は生きる道筋を教えてくれるものを求めるのだと思う。仏教が廃れていくとすれば、生きる道筋を教えてくれなくなったのか、他のものに変わって必要がなくなったかである。ここに仏教の未来の希望が見えた。
 生きる道筋を教える仏教に帰れ!ということである。