本の紹介でもいいのですが、紹介する訳ではないのでここに書きます。
 伊藤栄樹(しげき)著「人は死ねばゴミになる 私のがんとの闘い」新潮社
 1988年6月10日発行、1988年7月30日8版とはどれだけ話題を呼んだかが分かる。仏教に興味のある人なら一度は「人は死ねばゴミになる」というフレーズを聞いたことがあるでしょう。この一語を以て多くの説教師さんが「人は死ねばゴミなのか?」と法話の種にしてきましたが、この本を読んだことがあるのだろうか、と思ってしまった。伊藤氏も癌と闘い、真剣に人生を考えて生き抜いた一人であったと初めて知ったのである。本は闘病記で、「人は死ねばゴミになる」という言葉はテーマではなく、伊藤氏にとって、仏でもゴミでもいい、そんなことより残された短いいのちをどうやり残したことのないようにするか(特に家族を思いやるか)が彼にとっては一大事であったのだ。死んだ後のことは考えられない(科学的に納得できない)ということを象徴してそう表したのを、出版社がうまく利用して題に採用、まんまとその言葉に乗せられて、本の売り上げに貢献したといった方がいいようである。法話に使うにしても今後よく考えなければいけないと思う。
 その関係のところを少し引用させてもらうと、
『おぼろげに考えていたことをベッドのそばに座っていてくれる妻を相手に整理する。「僕の家も、多くの日本の家と同じように檀那寺を持ってはいる。僕の場合は、名古屋にある浄土真宗の寺だ。しかし、仏教という宗教を信じているわけではない。僕は、神とか仏とか自分を超えたところに存在するものにすがって心のなぐさめを得ようという気持ちには、とうていなれそうにない。・・・中略・・・
 僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思うよ。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、全くのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ。・・・中略・・・
 妻:「でも、あなたのような冷たい考え方は、いやよ。死んでからも、残された私達を見守っていてくれなくては、いやです。」
その気持ちはよくわかる。が、僕は、人間が死んだ後あと、魂だけが残って生きている人びとと交流できるとは、とうてい思えない。第一、人間だけに霊魂が残ると考えるのは僭越だと思う。・・・中略・・・
 だから、僕は、残される家族のためにやっておきたいことは、何としてもいのちのある間にやっておかなければ、と思う。死の到来との競争で。・・・中略・・・
 死んでいく当人は、ゴミに帰するだけだなどとのんきなことをいえるのだが、生きてこの世に残る人たちの立場は、全く別である。僕だって、身近な人、親しい人が亡くなれば、ほんとうに悲しく、心から冥福を祈らずにはいられない。それは、生きている人間としての当然の心情である。死んでいく者としても、残る人たちのこの心情を思い、生きている間にできるかぎりこれにこたえるよう心しなくてはなるまい。」
 康ベェ(妻)には大いに不満の残る私の独り言であったろう。でも、涙を浮かべながらも、じっと逆らわずに聞いていてくれた。「ごめん」。』
 
 立派な「無宗教という」宗教哲学であると思う。この告白を読んで、信国淳師の「ボクは浄土へ往く」の告白を思い出してしまった。全く正反対のことを言っているのに、精神は通じるところがあるように感じるのは私だけだろうか。
 仏になったり、浄土に往ったりするのは自分が良い所に行くのである。自分勝手なその矛盾を解くために、還相回向を持ってきて、この世に帰ってきて衆生を救うことにした。自分はこの考え方を支持したい。
 どう信じるかは自由であるが、真宗の救いを信じさせることができなかったとしたら、それは僧侶の責任であり、怠慢であろう。少なくとも伊藤栄樹氏はれっきとした真宗門徒であったのだから。
 五劫思惟。まだまだ考えは続く・・・。