仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(10))(最終回)
 浄土真宗の信仰者の中に、《妙好人》と呼ばれる人々がいる。「白蓮華のようにすぐれた仏教者」を意味する。この妙好人に注目して、日本の宗教界・思想界、いや世界にまで妙好人を知らしめた禅者として有名な鈴木大拙は、その著書の中でこれを定義して、「知識に乏しく、社会的地位に恵まれない階級の」すぐれた仏教者としている。
 これは、江戸時代の末期に編集された『妙好人伝』以来の、妙好人たちにおしなべて共通する属性の一つを帰納的な結論としてまとめたものであるが、妙好人たちの本質を捉えたものとも言うことができる。なぜなら、知識があって高い社会階層にある者は、伝統と称する弊害、あるいは社会的要請や見栄などが働いて、素直に「あるがまま」を「あるがまま」に見ることが妨げられるからである。その好例が、先に紹介した芦屋の奥様たちである。
 ところが「知識に乏しく、恵まれない社会的階級」の人々は、そのようなものに影響されることが少なく、のびのびとした行動が取りやすいから、無分別智により近い。その代表が、これまた先に紹介した下町の長屋のおばあちゃんたちである。
 したがって、「あるがまま」を見る目は、学問や知識をまったく必要としない。むしろ素直な心のほうが重要である。それが「信」なのである。
 そこで、妙好人の讃仰者たちは、
  あはれこ此の法門を智ある人は迷ふて信ぜず、邪見なるものは疑ふて謗りをなす。うらやましきかなや、一文不知の尼入道。
と叫ぶのである(藤沢 『純情の人々−新撰妙好人−』)。
 このように、「人の喜びを我が喜びとし、ひとの悲しみを我が悲しみとする」をモットーにし、自分中心から他人の立場に立って物事を考えてみるという「戒」が実践されれば、つまらないことにこだわるこだわりがなくなり、行動の根源となる意思も、考えも、言葉も、行為も、生活も正しいものとなる。そうすると、偏見や固定観念や先入観が消え去って、「あるがまま」を「あるがまま」に見ることができるようになるのである。(完)