仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(7)
 『大智度論』(巻一)という書物に、「仏法の大海には信を能入となし、智を能度となす」という有名な言葉がある。仏教に入るためには、まず信じることが必要で、その結果得られる智慧が覚りを得させると言う。信とは、澄みきって清らかな心、決定して疑いのない心のことで、「心が清らかならば、たとえば潔白な白い布がたやすく色を受けて染まるように」(『長阿含経』巻六『増一阿含経』巻九、『出曜経』巻六)仏教の教えも心にしみ込んでくる。しかし、それは「不条理なるが故に我信ず」といった、絶対者に対する絶対的な帰依を意味するのではない。これは、インド語では「バクティ(bhakti)」と言い、後のヒンドゥー教(特にヴィシュヌ信仰)において強調された。しかし、仏教の信は「信解」であって、心を澄ませて、心の底から共感することを意味する。
 このように、仏教の教えを信じて疑いがなければ、「少欲知足」の教えにも素直にうなずくことができるようになる。そうすれば、自分さえよければよいという「自己中心」的な思いも少なくなるはずである。だいたい人間は自己中心的で、自動車に乗っているときには道を歩く人の立場にはなりにくいし、道を歩いているときには車を運転する人の立場には立ちにくい。その底に、自分の欲求は充足されて当然という価値観があるとすれば、他人の立場に立ってみるなどということは想像だにできないにちがいない。(8に続く)