昨日の仏壮「研修会」のPart2
 宮本義宣師のレジメの中にNPO法人を設立した應典院というお寺のことが紹介されていました。会員制NPO「應典院寺町倶楽部」というものです。別のことから「葬儀改革」について考えていて、「がんばれ仏教!」上田紀行著をちょっと真剣に読もうかなと思ってページを開いたらこの中の「魅力ある寺・僧侶とは」という項目に、秋田光彦―寺よ僧侶よアーティストたれ!と應典院が紹介されていました。この人の才能は並外れたものらしい。もともと應典院というお寺はNPOとして作られたものである。運営を應典院寺町倶楽部が行なっている。自分達の使命を掲げ、その使命に賛同する会員を募り運営していくという、前代未聞のNPOとしての寺の誕生であった。類稀なプロデューサーとしての才能を持った秋田氏は、今「死」に取り組もうとしている。いったい、これからどんな動きが生まれるのか。「死」を巡る「社会芸術」はいかに再創造され得るのか。秋田住職の実験は続く。と詳しく紹介が書いてありました。
 ちなみに「こころの寺仁隆寺」は皆の宗五劫思惟派です。この皆の宗というのは、次に紹介されていた高橋卓志―真の葬式仏教とはの神宮寺からの受け売りです。この機会に裏ネタも暴露しますが、いいものは取入れて行きたいという思いがあります。「死の準備教育」とか今はやりの「旅立ちデザインノート」の先駆けである。アイデアマンで行動力がある。その高橋住職の言葉でハッとした。
高橋住職はある出版社から「法話」の原稿依頼を受けたことがあったそうです。そして、住職に依頼されたのは、「ターミナル・ケアを受けている患者さんに対する法話」だった。高橋住職は即座に断ったという。そのあまりの感性の貧しさに絶句したのだ。「それは法話のパクリ本である。死に向かい合っている人に、パクリの法話ですませようというのか。自分の目の前で今死に瀕している人と、一人の人間として、宗教者として向かい合い、そこから生じてくる言葉、生きた言葉を語ることこそが死に行く人の魂に届く言葉になるのである。」という言葉は、対象が誰かということもあるけれども、法話台本が整備できるといいなと思っている自分にとって特に考えさせられたことである。