仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(3)
(2の続き)そして、仏教では坐禅やヨーガが尊ばれる。哲学することは坐禅することであり、坐禅することは観察することである。坐禅によって「あるがまま」は観察され、如実知見される。
 仏教には「三学」という言葉がある。覚りを得ようとするものが踏み行なうべき学処のことで「戒学」「定学」「慧学」の三を言う。「戒」によって「定」が得られ、「定」が得られて初めて「智慧」が完成するということを表わす。だから、智慧を得るためには坐禅がなければならないが、この坐禅の前提となるものが「戒」であって、そこで「戒」が仏教を行じるときの基礎となる。大乗仏教百科辞典と呼ばれる『大智度論』(巻13)には、
 もし人が大善利を求めようとするならば、常に堅く戒を持つこと、重宝を惜しむがごとく、身命を護るがごとくしなければならない。なぜなら、一切万物、有形の類は、皆大地をもって住するように、戒は一切の善法の住処であるからである。また、たとえば足なくして往かんと欲し、翼なくして飛ばんと欲し、船なくして渡らんと欲しても不可得であるように、もし戒なくして好果を得ようとしてもまた不可得である。
とされている。
 それでは「戒」とは何であろうか。(4に続く)