6/18日付中日新聞夜回り先生水谷修氏の「明日を求めて・・・こどもたちへ」という記事が載っていました。「必要とされる幸せ」と題して「死にたい」とメールをくれた女の子の話で、今は先生の勧めで老人施設で介護の仕事をしているそうです。
その子から「先生、今日私の担当しているおばあちゃんが亡くなりました。家族のいないおばあちゃんだったから、私が病院でみとりました。おばあちゃんね、最期に私の手を握りしめて、ありがとうって言って旅立っていった。先生、生きててよかった。私、霊安室で一晩中おばあちゃんについててあげた。霊安室の窓少し開けてあげたんだよ。おばあちゃんの魂が天国に行けるように」という電話があったそうです。
この話で思うところがあります。この子は救われつつある、あるいは救われたんじゃないかということです。「魂が天国に行けるように」祈ったのですが、「生きててよかった」と思えたこの子は救われていると思うのです。「魂」なんて「天国」なんてという住職もいるでしょうが、その住職も亡き人を「浄土」にいけるようにと祈って、送り出しているでしょうか。この子は純粋におばあちゃんのことを祈っています。前にも言ったように、人間のこころというものは古代から変わっていないと思うので、同じ感覚のことをあまり考えずに「天国」といってみたり、「あの世」と言ってみたり、「浄土」と言ってみたりします。それは今までの人生経験で出合った「縁」によって言い方が変わっているだけだと思い始めています。もし、「浄土」の思想を広めたかったら布教で縁を増すしかないのです。マスメディアなんて真の布教でないと言えば、出来ないものの僻みにもなってしまいます。それぞれの人が出来ることを「そのまま」力にして布教してください。今の住職(全部ではない)は布教する気があるのでしょうか。大乗仏教の醍醐味は、自利利他の教えの実践だと思います。「救い」(大きな意味での救い)を与えたいのなら方法や言葉にこだわる必要はないと思います。宗教も思想体系の一つで、思想に信心が生まれたところに宗教というものがあるのです。いわゆる『宗教』を越えよう。それが「阿弥陀の世界」だと思います。
「『宗教』というものでは信じるものしか救われない」この命題の真偽は如何。
「煩悩具足の人間。その煩悩はいかなる行によっても剥ぎ取ることは出来ない。罪悪深重煩悩具足の凡夫の自覚が芽生えた時に人は救われる??」

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記事はこう結ばれています。
子どもたち、特に苦しんでいる子どもたち、明日のことや過去のことを思い悩むことを止めませんか。過去は変えることができないし、悩んだところで、明日は作ることはできません。まずは今、周りに優しさを配りませんか。人のための何かしてみませんか。必ず返ってくる「ありがとう」の一言が、今君が生きていることの意味を、そして明日を生きていく力を君にもたらします。悩み苦しむのは、答えが出ないから。それなら、まず今動きましょう。誰かを幸せにするために。

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住職よ。念仏に答えが出ないのなら、まず念仏してみませんか。まず今動きましょう。誰かを幸せにするために。