仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

「仏教的ものの見方」とはどのようなものの見方であり、それによって人間や世界がどのようなものとして見られたのか、人はどのように生きなければならないとしたのか、すなわち仏教の原点には何があったのかを探ろうとした「仏教学概論」の副読本として書かれたものです。仏教を哲学の一つととらえて基本を網羅してある。語句の解説も多く親切。その結章を10回に渡ってそのまま引用したい。
仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(1)
 仏教の開祖と崇められた釈尊には、おそらく自分が新しい宗教を始めるという自覚はなかったであろう。釈尊は「あるがまま」を「あるがまま」に如実知見して仏となったが、ただそれだけのことで、別に新しいことを発見したとか、新しいものを作りだしたとか、自分だけにしか見えないものを見、聞こえないものを聞いた、というわけではないからである。釈尊は仏となったとき、古の聖者たちも覚ったと同じものを覚り、また今の人たちも、未来の人々も覚りうるものであると、確信されたに相違ない。
 そこで釈尊は、もしこの自分の体験を、あるいは自分が気づいた「あるがまま」の実相を人に伝えることができたら、ほかの人々も自分と同じ如実知見を得ることができると考えられ、後半生の四十五年間を布教に邁進された。主に自らの生きざまを示すことによって、時には言葉をもって。残念ながら、時代を異にするわれわれは、隔靴掻痒の感を免れがたいこの言葉による聖典に頼らざるを得ないが、それでもこれが残されている限りは、これを頼りに釈尊と同じ境地に到達することができる。
 しかし時が過ぎ、社会が変化すると、「あるがまま」の実相も変化する。科学も進歩し、政治や社会の情勢も変わってくる。そこで大乗仏教時代に仏になった仏たちは、変化した「あるがまま」を「あるがまま」に知って、それを追体験させるために、新しい見方による、新しい経を作られた。しかし、彼らは自分がその著者だなどと自己主張しなかった。釈尊と同じように「あるがまま」を「あるがまま」に如実知見して仏になったのであるから、釈尊という仏を借りて、釈尊の教えという形をとった。表面に現われる現象は変わっても、縁起の理法は変わらないから、すべての仏の覚りの内容に異なりはない。「唯仏与仏」で、すべての仏たちは感応道交しているから、その覚りや説法に何仏でなければならないということはないからである。  (2に続く)