念仏と聞いて皆さんはなにを思うだろうか。現代人は頭で納得しないと行動できない。だから、一生懸命そのことについて意味付けをしようとする。念仏に意味付けは出来ないが、自分なりの納得の仕方を2,3持っている。今回の徳島への旅行でちょっと考えさせられたのでここに披瀝したい。それは「阿波踊り」である。宴会で旅館の人が阿波踊りを一緒に踊りましょうと踊ってくれたのだが、参加したのは約50名中2名だけ。恥ずかしくて踊れないのか、踊りたくないのか分からないが、踊りたくても恥ずかしいと言うことであれば、殻を破れなかったと言うことである。殻を破ったもの同士の連帯感は格別なものであろう。そして、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」の掛け声でもわかるようにまず踊ってみよということである。そこから何か感じるものが生まれる。自分は殻を破ったもの同士の連帯感が念仏にも通じる感覚のような気がする。そして、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損」の掛け声は、まず念仏せぇ!に通じる。
 ここで別の角度から見ると、旅館の女性(女中さん:適当な言葉が見つからない)の誘い方がいいかげんで、熱がなかったのである。お客が踊ろうが、踊らまいが我関せず、仕事だから一応は阿波踊りを紹介します程度であったということ。そうじゃない。踊らにゃ損なんだ。この機会に是非踊ってくれ。私たちはこんなに楽しく踊っているよ、と誘わないといけなかったのだ。これで阿波踊りの縁は切れた。念仏も同じことだと思う。この機会に是非念仏しておくれ。私たちはこんなに楽しく念仏しているよ、と誘わないといけないのだと思った。念仏を実践していない住職には無理だが、真面目に念仏している住職は、自分だけの法悦にせず是非、縁あるものを誘っていただきたいものである。
 いろいろ書いたが、「念仏には自分の殻を破る作用があり、殻を破ったもの同士の連帯感が生まれる。」これが自分の納得のひとつである。もちろんこれだけなら、阿波踊りでもいいのだが、念仏はもっと広く深いものだと感じている。だからこれは2,3の納得の内のひとつである。念仏に抵抗のある人は阿波踊りから実践するのもいいかも知れない。