生きがい感とは、「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」といった問題意識が明確であること、自分なりの解答を持っている必要性があるらしい。それらが見つからないとき「生きがいの無い人生」空過な人生ということになる。これは哲学的であり、また宗教的な命題である。半永久的に生きがいが得られないかもしれない。清沢満之師が問われた「自己とは何ぞや」という問いに集約される。この問いに答えていくのが「こころの寺仁隆寺」の役割だが、自分は生きがいというものに別の定義づけをしている。「したいこと」「できること」「しなければならないこと」を満たすことが見つかったときに生きるエネルギーが湧き上がるというものである。この3つを満たすことは結構難しいのであるが、先の哲学的な問いに比べると、ぐっと具体的で身近な問いになってくる。簡単に言うとライフワークと呼べるものを見つけることができるかということだと思う。
 「死後の生命」や「生まれ変わり」のことを科学的に研究しているひとたちがいる。そういうひとは「ソウルメイト」というような言葉を使っている。「生まれ変わり」とか「『それじゃ、またね』と言って『あの世』という故郷へ帰っていこう」とか生まれ変わりの科学などと言って大学の助教授が本を書いている。真宗で言う浄土の話と同じようである。その助教授の話に多くの人たちが納得して、あたかも法然上人を信じた親鸞聖人のように、
「たとえ先生のお話しが、まるっきり嘘だったとしても、私は今後も信じて生きていきたいと思います。死後の生命や生まれ変わりを信じた方が、これからの人生を、有意義で生き生きと送れるに違いないからです。
 このお話を信じていれば、どんな困難にぶつかっても、目をそらさずに立ち向かっていくことができるでしょうし、いつも私を見守ってくれている魂たちが存在していると思えば『自分はこの世で一人きりだ』とか『自分のことをわかってくれる人など存在しない』と思って落ち込むこともなく、安心して生きていけるからです。」 (生きがいの創造 飯田史彦著参照)
という手紙を書いているのです。仏教の法話をして、そのような手紙を受け取ったことがあるでしょうか。今の仏教者は対象を間違えていると思います。明日とも知れないおばあさんは、今まで聞いてきたことを実践する立場にあります。若いひとを集める手助けをするべきです。既存仏教と同じような事を「阿弥陀仏」の変わりに「ソウルメイト」という語で分かったような話をするところに若者は引かれているのです。人間の「こころ」というものは古代ソクラテスのころから進歩していないと思います。思想体系は進歩しているので、あるのは良い縁に恵まれるか否か。死後の生命や生まれ変わりをいかにもあるように語る「ソウルメイト」の思想は、魂に悪いという直感が働かないといけません。しかし、現代どこへ行ってもスピリチュアルで、ブームと言ったらそれまでですが、社会的に見て将来どうなるのか心配しているのは自分だけでしょうか。
 「既存仏教者の方々、もっとこの危機的現実に目を向けて、宗教者としての役割を果たそう。それが住職の生きがいとなるのだと思います。」