先日、高柳氏の講義で分裂報恩講とは改革派が、
信心派と社会派に分裂したのであって、
法主側と内局側で分裂したということではないと聞いた。
確かにあるブログには、

「分裂報恩講とは、紛争の相手であった大谷家と改革派があい争ったために分裂して報恩講を勤めざるを得なくなったのではない。簡単に言えば、1979年の報恩講で出仕してくる大谷家とその取り巻きを警備と称して内局が締めだしてしまったことから、そのやり方について改革派内の意見が割れ、改革派内に分裂が起きたのである。」

とある。
法主派と信心派と社会派との三つの派閥ができたということらしい。
が、『分裂報恩講』という言葉は、
法主側と内局側とで報恩講を別々に行なったとしか取れないのだが…。