人間は本来、理屈から打算していちいち動いているのではなくて、やむにやまれない心の衝動から興味本位に動いているので、他人にはつまらないことでも、自分に無上の快楽と感ぜられる仕事もあり、自分には苦しいことでも、他の人には平気なこともあり、皆それぞれの主観本位に動いているまでで、他を強制したり干渉したりすることは全く徒労だ。みずから悟り、みずから好む方向へと、各自が進んで行きさえしたらよいのだ。      「生きがいの確信」より
わたしは、先に、「偉ぶりたい人は、偉ぶっていたらよい」「何をするのもいやな人は、何もせずいたらよい」といった。しかし、これは臨時の手段として「それでよい」といったまでで、そのことが本当によいのでは決してない。その人は、そうしている間に、自分で「なるほど、おれが悪い」と悟ってきて、やがて他へ方向を転ずる―そうしたやり方が、真の改心であると信じているからである。
曲がった釘を真っ直ぐにするためには、金槌で打たねばならない。しかし、人間をため直すためには、断じて、他からこれを強いてはならない。人間には各自に自主の心がある。この心が真に動くのでなくては、その人は真にため直るものではない。自己を自由にするものは自己であって、決して他人ではない。肉体は無理強いに往生させることができるけれども、心はそうはゆかない。
「生きがいの確信」より