昨日授業で釈尊の四苦を考える中で、
「誰もみんな死ぬ」ということについて考えました。
死は恐ろしく、寂しく、不安で、釈尊は苦として生老病死を捉えました。
かと言って「不老不死」は空しかったり、無意味に感じられるのでは、
ということでした。
自分は、不死なら不死で、五劫思惟のようなこともできるし、
もともと浄土思想も不死の世界観ではないかと思ったりしていました。
自分だけが不死になったときの別れとかは辛いと思いますが、
そのような仮定にも問題が有るでしょう。
不死の世界ではみんな不死なんだと思います。
また、自分だけが不死だとしても、
"恋はデジャブ"のような楽しみもあります。
「不老不死」は毎日輪廻ですから、
それこそ解脱の道を見つける楽しみも出ると思います。
生死の生は生まれるの意味だそうですけれど、
生きる、死ぬを出る道を求めていくならば、
「不死」も同じで、空しかったり、無意味とはならないでしょう。
この「不死」は空しく、厄介なものという考え方は
どうもステレオタイプのような気がするのですが、
いかがでしょうか。(考え方だけの問題ですが…)