報恩講の季節になり、にわかに親鸞聖人のことを読み直していたら、
ちょっとしたことが気になってきた。
 
親鸞聖人が9歳で出家したとき(1181年)、戒を授けたのは慈円である。
慈円は、法性寺関白藤原忠通の子であり、九条兼実の弟である。
九条兼実法然上人と出会ったのが1189年。
このときから兼実は、法然上人を何度も招き戒を受けている。家族ぐるみの付き合いであった。
そんな中で、雑談でも範宴(比叡山での親鸞聖人の名)という名前が出てもおかしくないのでは
と思ったのである。というのも、現代でもすごい人がいればその名前がどこからともなく耳に入る。
慈円が1192年に天台座主となる。
比叡山でもし菩薩の生まれ変わりとまで言われるほどに学問がよくできたのなら、
範宴9歳での出家や、いろいろな噂は慈円から九条兼実へ、兼実から法然に入っていたのではないだろうか。
そして、法然上人がいつか機会があれば、念仏の教えに引き抜けないかと思っても不思議ではないだろう。
法然上人が親鸞のことを知ったのが、1189年以降。
もしかしたら、すぐに誰かを使いにやったのかも知れない。
ドラフト指名にも等しいお招きにも、親鸞聖人はまだ迷っていた。
1191年親鸞聖人は磯長の聖徳太子廟に3日間参篭される。
余命あと10年のお告げを受けるが、
その意味は10年修行を続けて駄目だったら法然上人の招きを受けようということではなかったのだろうか。
法然上人にそのことを告げて、丁寧に今回の招きをお断りする。
その後、度々噂を耳にし心配なされる法然上人。
法然上人は27年間修行をなされた。自分を顧みると、10年そこそこの修行で決心がつくことではない。
10年後で20年の修行となる、そのときにあらためて使いをやるつもりで見守っていたのではないか。
親鸞聖人29歳になった正月明けに、スカウトマン聖覚法院がやってきて決断をせまった。
ほぼ決心はしていたが、まだ迷いのあった親鸞聖人は、
頂法寺六角堂に籠られ、4月5日の夜、観世音菩薩のお告げがあり、やがて法然門下に入る。
こういった流れはおかしくないのではないだろうか。
とすれば、法然門下に入った後の、法然上人の親鸞聖人に対する手厚い待遇も
ドラフト1位なんだから当然のように思う。
そんな推理を働かせていくと、女犯偈と呼ばれる偈の意味も微妙に違ってくるように思われる。
山を降りて、行も戒も怪しい教団に入って良いものかという未来に対する漠然とした不安を
解消してくれたもので、現実の悩みを解決したものではない。
  
こんな推理、秋の夜長にどうでしょう?