昨日元気塾で、
外楽・内楽・法楽楽ということを学んだ。

親鸞聖人が「教行信証」の中に引用している文で、天親菩薩の言葉にこうあるのです。
「楽に三種あり」
「楽」というのは「幸せ」とか「楽しい」とか「喜び」とか「救い」とか言うことです。
それが3種類あるという。

外楽:「げらく」
自分の外から自分の欲しいものが入って来る喜び。
つまり、自分の欲望が満足したときの楽です。
ほとんどの喜びがこれです。
内楽:「ないらく」
心の中のこと。
心を静かにしずめて、腹立ちや恨みやイライラなどのさわぎ立つ心が、安らかに落ち着く喜び。
法楽楽:「ほうがくらく」
この楽は「智慧(ちえ)から生まれる」と書いてある。
智慧というのは「ものごとの本当のことを見ぬくはたらき」のことだから、
仏のはたらきであって、人間が持ち合わせているものではない。
「自分の思い込みの心を離れ」「人のことなどどうでもいい、という心を離れ」
「自分のためにしか生きない心を離れ」るところに見えてくる楽だという。のです。

「自分だけ」を離れて「みんなで」という世界に目を向けるところから始まる「楽しみ」「幸せ」。
自己満足じゃなくて、みんなでいっしょに「よかったなあ」って喜べるような。

このような解説がされていた。
座談会では、法楽楽は仏様の世界のことだから人間には感じ得ないし、
わかるものではないので考えなくて良いと言われたが、
上記解説は自分の考えに近いものがある。
つまり、自分の喜びが「外楽」、
他人の喜びを自分の喜びと同じように喜べる(精神の喜び)のが「内楽」
そして、100%他人の喜びを共有出来たときの喜びが「法楽楽」
だとイメージした。
当然100%他人の喜びを共有することは有り得ない。
人間の知恵を超えた仏の智慧が必要となろう。
 
などと考えていたら、
隣の人が「わからないと言うことはこれからも聞いていくしかないんですね」
というようなことを言われた。
自分は聞法とか聴聞に終わりがないというのには違和感があるのだが、
(現役を引退したら実践にうつったらどうだろうかと思っている)
今日たまたま良寛の次のような歌に出会った。
「つきてみよ 一二三四五六七八(ひふみよいむなや) 九(ここ)の十(とう)
         十(とう)とおさめて また始まるを」

(私について手毬をついてみなさい。十で終わって、また一から始まるように、
仏道とて限りないものですよ)

その人は49歳で、ものごとを受け入れると楽になることに気づいたという話をされた。
ここは、ご縁を受け入れて、限りなく聴聞に励むしかないだろう。
昨日のアンケートにはあえて永久に修行だと書かせていただきました。
今回は(ここに書かなかったことでずいぶん)勉強になったなぁ。
また機会が来たら、考え実行したことを書かせていただきます。   合掌