構造主義というのは、
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである。
というような考え方です。

 
意識的にまたは無意識的に考え方が固執化させられていると言うことだろ。そもそも生活環境で排除されていることは私たちの視界に入ることもなく、感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。ということは、相手の立場に立ってとかいうのは虚構だということなのか。可能な思考のすべてが予定調和的に思考習慣によって決まってしまう。それを回避するためにはどうすべきか?自分の属する社会集団を変えれば、またいろいろ見えたり、考えたりできるのか。
構造主義は新しい考え(1960年代〜)ということだが、自分たちはその時代に生きているので、結構その考えに浸っている。ちょっと前の映画「硫黄島からの手紙」は「父親たちの星条旗」の日本から見た硫黄島版であった。それぞれの立場から違った見方があるという考えは当たり前に思うが、これが実は1960年以前に一般的ではなかったらしい。
とすれば、今後もっと社会が変化すれば、新しい未来の思考が確立され、もっと住み易い世の中ができるかもしれない。それこそ「仏のものさし主義」である。話がそれますが、「仏のものさし主義」は脱経済主義です。この未来の思考の立て役者は"オタク"だと自分は思っています。
グローバル化という世界共通の認識は日本の良さを失わさせるような気もしてくる。