「自分のことは自分がいちばんよく知っている。」
「あなたは私の何を分かっているというのか。」
「私のことが心配だというが、そんなにあなたは偉いのか。」
 
いろいろな人間関係の中で私たちは生きている。自分の思い通りにならないことも多いし、世の中は不満でいっぱい。だから「自分」は、最後の牙城となる。他人が何をしようと関係ないが、自分のことは誰にも譲れない。なぜならば、自分のことは自分がよく分かっているからだ。そうあなたは言うかもしれない。
しかし、「自分では気づいていないようだが、あなたはいつの間にか大事なことを見失っている。」と2500年ほど前、ギリシアアテネに生きた哲学者であるソクラテスなら言うだろう。
哲学者と聞くと、難しい本を書いた人、というイメージがあるが、彼は一冊も本を書かなかった。弟子であるプラトンが書いた対話篇が残されているだけだ。彼は書き物をせず、ただひたすら人々に問いかけ、ひたすら納得のゆくまで議論を続けた。それは、自分自身のことをよく知るためだった。
今の時代、誰もが「自分」を大切にして入るように見える。だがはたして本当か。ソクラテスから見ると、自分自身を知ることは「無知の知」からはじまる。つまり、何も分かっていないという自分に気づいたところから、ようやくスタートに立つことができるのだ。
                 [哲学で自分をつくる 19人の哲学者の方法 瀧本往人著より引用] 

 
ソクラテスは「違法者」として死刑となった。若者たちを惑わせたという理由で。
法然親鸞流罪となった。表向きは民衆を惑わせたという罪であろう。
そして法然は愚に還るとか言い、親鸞は愚禿と名乗った。
ソクラテスの思考と親鸞の思考は似ているようにも思う。
そこに哲学者としての親鸞の匂いがするのである。