ということで、早く寝てしまったので朝これを書きます。
19人の哲学者のトップバッターはデカルト

「自分らしく生きたいが、自分らしさってなんだろう。」
「自分は世界で唯一の存在、もっと自分を大事にしたい。」
「すべてをリセットして自分の可能性に賭けてみたい。」

デカルトがこんな意見を聞いたら、「人間にとっての最大の拠り所はまだ、「我」なのか!?」と驚くことだろう。
疑うことにかけては、デカルトの右に出る者はいない。彼は、本当に確かなものはこの世にあるのだろうかと考え、考え尽くしたうえで、疑えないものなんてない、という結論に至った。彼はこの問いをさらに突き詰め、まぎれもなく確かなものを発見した。それは、「すべてを疑った」、そのこと自体は確かだ、ということである。つまり、疑い尽くした「我」が「在る」ということだけは、動かしがたい「真実」であるということだ。
考えれば考えるほど、「自分」以外に確かなものはない。だからあなたのように、「自分らしさ」や「本当の自分」を探るということは、至極当然のことであって、そこにリアリティーを感じるのは自然のことだ。しかし、ここからが大問題だ。あなたは、いつか「本当の自分」を見つけることができると思っている。だが、それは本当に可能なのだろうか。
 
探していた「私」はいつの間にか、「観察」する人間を指すことになっている。「私らしさ」とは、一方的に対象を眺めることを中心とした存在なのか、それが「私」だとすれば、普通に生きる私たちの現実とは、あまりにもかけ離れている。あなたが望んだ「私らしさ」はどこに行ってしまったのだろう。
                    [哲学で自分をつくる 19人の哲学者の方法 瀧本往人著より引用] 

歎異抄の後序に
 聖人の仰せには、『善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします』とこそ、仰せは候いしか。
とあるのが面白い。
比較してみると、デカルトは私を取り戻そうとしているのに対し、親鸞は私を突き放そうとしている。いずれも人間世界に真は無いのだろうと思いつつ。デカルトは「疑っている私のみ」を真実とし、親鸞は「念仏のみ」を真実とした。それらの意味するところは何だろう?
 
唯物論での真実は現に起こったことなのだろう、起こらなかったことを思っても、嘆いても始まらない。しかし、人間は想像できる生き物である。観念論としては、それは違うだろうと勝手に思ってしまう。そこでの、二人の考えは「疑う」とか「念仏」とか、私の側に真実は無い。これが答えである。ひとつひとつの事柄に一喜一憂することは、惑わされているだけか?それでは、どのようにして考え、生きていけばいいのだろう。
哲学で自分をつくる旅はつづく。