親鸞と学的精神 今村仁司親鸞の主著『教行信証』を有限な人間が絶対知に至りうることを論証した学的著作として読解する著者の絶筆.テキスト構造を解体し,「化身土論」が世俗内の人間が智慧を求める過程の現象学的叙述であるとし,そこに親鸞人間学を見る.人間社会に倫理的正義を実現することは可能かという社会哲学的問いが,親鸞を現代に蘇らせる.
「形式的には仏教の基本の教えをどの教典に依拠するかは各人の自由に任せられる。親鸞はどのような推論によって依拠の教典として大経を選択するに至ったのか」
「たいていは、ひとは既存の世俗道徳規範を内面化し、その習俗規範を自明の真実として生きている」
「有限な人間は世俗内人間である限り、その信は必ず世俗的欲望のかずかずにまみれざるをえない。こころのもちようでどうにかなるものではない」
「世俗には魅惑と誘惑が充ち満ちているからこそ、まさに世俗社会は我執を育成し、我執の妄念を紡ぎ出し、その妄念が妄念とはみえずに、あたかも真実の現実的な生き方として賞賛されるに値するかのように万人を説得する」
「たとえ善人であっても世俗生活をする限り批判されている生き方を避けることはできないであろう」

p60まででもこれだけハッとさせられる。問題提起と問題の確認である。さて、解決編はいかに、というところで…。