1Q84
いろんなものの混ざり合わせのようで、
初めて村上春樹という人の本を読んだ自分は、
これが、そう?と感じてしまう。まぁ、まだ
1巻なのでこれから?
オウム真理教を思わせたり、エホバを思わせたり、
ヤマギシズムを思わせたり、
そして、これはチャーリーとチョコレート工場ではと思って、
調べてみたら、やっぱりそう思った人がいたようです。
http://www.korekaraseisyun.org/blog/2009/10/1q84.html
そこには、
「もしかすると村上さん的にも、
薬にも毒にもならないモノに時間を割いてもらってしまったので、
せめて春樹文体使ってください的なノリになってきてるのかな?」
と書いてありました。
そうですよね〜。何故こんな本が爆発的に売れるのか。
消費者は踊らされているのではないでしょうか。
 
その「1Q84」第1巻の中で、収穫だったのは、p490
『時間がいびつなかたちをとって進み得ることを、天吾は知っている。時間そのものは均一な成り立ちのものであるわけだが、それはいったん消費されるといびつなものに変わってしまう。ある時間はひどく重くて長く、ある時間は軽くて短い。そしてときとして前後が入れ替わったり、ひどいときにはまったく消滅してしまったりもする。ないはずのものが付け加えられたりもする。人はたぶん、時間をそのように勝手に調整することによって、自らの存在意義を調整しているのだろう。別の言い方をすれば、そのような作業を加えることによって、かろうじて正気を保っていられるのだ。もし、自分がくぐり抜けてきた時間を、順序通りにそのまま均一に受け入れなくてはならないとしたら、人の神経はとてもそれに耐えられないに違いない。そんな人生はおそらく拷問に等しいものであるだろう。天吾はそう考える』
 
この文を読んだとき、親鸞聖人絵伝の四幅を思い浮かべてしまった。
前後が入れ替わったり、まったく消滅してしまったり、ないはずのものが付け加えられたりしている。
時間をそのように勝手に調整することによって、自らの存在意義を調整しているのだろう。
そのような作業を加えることによって、かろうじて正気を保っていられるのだ。
順序通りにそのまま均一に受け入れなくてはならないとしたら、人の神経はとてもそれに耐えられない。
 
なるほどと思う。