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「小説とは、“個”が立ち上がるものだ。別の言い方をすれば、社会化されている人間の
なかにある 社会化されていない部分をいかに言語化するかということである。
社会化されていない部分というのは、普段の生活ではマイナスになったり、他人
から怪訝な顔をされたりするものであるけれども、小説には絶対にかかせない。」
「思い出させることは小説だけでなく、すべての表現の力だ。思い出すこと、
忘れないこと、見えなかったものを見えるようにすることには、それだけで意味がある。」
「言葉(A)を使って言葉(B)では伝わらないものをつくり出すのが小説だ。
言葉(A)は「小説語」、言葉(B)は「日常語」と言い換えてもいい。
私の言う「小説語」とは、これまでの小説で使われてきた語彙や表現、
思考ではなく、もっと自分の内側から出てくる言葉、もっと身体性のある言葉だ。」
「小説では何が可能なのか?」
「最初の一作のために全力を注ぎ込んだ人には、二作目がある。
しかし、力を出し惜しんだ人には、二作目どころか第一作すらない。
なぜなら、全力で小説を書くことで、その人は成長する。
力を出し惜しんだ人はその一作で成長しない。」
「有名なフレーズには何の意味もなく、思考のプロセスに意味があるだけなのだ」
上記すべて保坂和志著『書きあぐねている人のための小説入門』より引用
小説を、法話とか仏教と変えて読むと、素晴らしく納得できる。
法話をするというのは、小説を書くのと同じプロセスなのです。
芸術というものは、みんなある種の感覚を共有しており、
その感覚は仏法の聴聞、説法にも通じてきます。
言葉を使ってその感覚を共感できるようにするのが説教。
小説風に情景を切り取ると、また世の中の見え方が変わってくるでしょう。
自分は人の服装などに全く興味はありませんが、例えば「1Q84」のp25には
『彼女はジュンコ・シマダのグリーンの薄いウールのスーツの上に、
ベージュのスプリング・コートを着て、黒い革のショルダーバッグをかけていた』
と書かれている。こんな風に人を見たことがありません。
世の中にはこういう目で見ている人も当然いるのだと改めて気づきました。
すべてのことを好き嫌いなく、興味を持って受け入れられる体制ができるかどうかで、
情報の量に膨大な差が出てくるのだと思うと、何か今まで損をしていたような
気になってきました。
来年は、とりあえず何でも受け入れられるようになろう!という目標を立てたいと思います。