「今、ここに生きる仏教」p234より
上田紀行
「恩徳讃は激烈な内容なのに、多くの人たちが、
これはもう決まりきった歌だとしてうたっている。
それが、力を弱めているのではないかということなんです。おじいちゃん、
おばあちゃんにとっては、小さいときからうたっているものなので、
身に付いていると思うんですが、私のようにポッと入ってきた者にとっては、
旋律のほうがきれいすぎて、内容と旋律の関係がちょっとどうなのかな
と思ったんです。
 
それでこの前、実践真宗学科で、このごろは髪をドレッドみたいにして
ダンスとかやっている子がいますから、この恩徳讃をヒップホップで作れないかとか、
ロックでうたうんもいいんじゃないかと言ってみたんです。
 
実際、YouTubeを見てみたら、鈴木君代さんという大谷派の女性の方が、
この恩徳讃を「Amazing Grace」の節でうたっているんですね。
それを聞いていますと、
現代人としては、そのほうが心がこもっているように聞こえる部分がある。
だから学生には、君たちの世代はこの旋律にとらわれず、ラップで作ってみたり、
ロックでつくってみたり、「報ずべし」「謝すべし」という気持ちが一番入るものでうたって、
自由に表現してもいいんじゃないかと。
 
和讃の、まさに精神に触れていればいい。いまうたわれているものだって、
清水脩さんや沢康雄さんという作曲家が作ったものなのでからね。
  
というのも、この日本の、平成の仏教というものを考えてみたときに、
すでにこう決まっているから、ただそれを受け継いでいくということではなくて、
ある種、選び直していくという契機が必要なんじゃないかということを、
すごく感じるからなんです。
 
鈴木君代さんが「Amazing Grace」の旋律でうたわれているのを聞くと、
やはりそれは自分が選び直してうたっている。その可能性、自由度があるわけで、
「Amazing Grace」であろうがホルストの「惑星」であろうが、
選び直してうたえるんだということが、みんなに伝わることが
重要ではないかと思うんです。」

  
自分はこの意見に全く同感です。
今お勤めしている「正信偈」も蓮如上人の時代はラップのような斬新さがあったのだと
いつも言っています。しかし、今ではその節回しから心にくるものはありません。
以前、鈴木君代さんの「Amazing Grace」をまねて使ったら、
恩徳讃を何と心得るというような激烈なご批判をいただきました。
まあ、自分に徳がなかったので、人間関係の問題もありましたが。
何でもありというと、誤解が生まれる危険もありますが、基本的には試行錯誤、
現代の仏教を選んでいくことが、未来に仏教を残すためにも必要なことだと思います。
そのためには、権威がそれを認めることは大事だと思います。
そうすることによって、瑣末な批判を押さえることが出来ます。
 
昔から人気のあった節談説教が押さえ込まれたのも、
できない人の妬みがあったとも言われています。
何でもできる人はやる、できない人は少なくとも邪魔をしない、
この原則でどんどん発展させていってもらいたいものです。
そして、それぞれが得意とするいろいろなジャンルに
交互にみんなで挑戦していく。
 
できれば、できない人はできる人の応援をする、
とそこまでいけば、仏教だけでなく日本の未来は安泰となるでしょう。
以前、もっと仏教は外に向かって救いの活動をすべきというようなことを言っていたら、
「できるならやってみればいい」と撥ね付けた大谷派の年取った女性がいました。
こういうひとばかりだからいつまでも動かないんだと思ったものでした。
今回、大谷光真氏までが、「今、ここに生きる仏教」を考えていると思うと、
間違っていなかったと心強いばかりです。
 
鈴木君代さんの動画はちょうど1年前に紹介していました。
http://d.hatena.ne.jp/jinryuji/searchdiary?of=1&word=%CE%EB%CC%DA%B7%AF%C2%E5 
今年は、浄妙寺の新年の報恩講、ライブを見に行きたいです。
「Amazing Grace」の恩徳讃はこちら。
http://www.youtube.com/watch?v=0UOR7wLAwxI&feature=related
調べてみたら2007年から、1年に1回ずつ鈴木君代さんのこと記事にしていました。
不思議な御縁です。