少しの間、親鸞聖人の勉強をします。カテゴリーはあったのですが…。
  
 それ、聖人の俗姓は藤原氏、天児屋根尊二十一世の苗裔、大織冠(鎌子の内大臣)の玄孫、近衛大将右大臣(左大臣従一位内麿公(後長岡の大臣と号し、或いは閑院の大臣と号す、贈正一位太政大臣房前公の孫、大納言式部卿、真楯の息なり)六代の後胤、弼宰相有国卿五代の孫、皇太后宮大進有範の子なり。  
 しかあれば朝廷に仕えて霜雪をも戴き、射山に趨って、栄花をも発くべかりし人なれども、興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催いしによりて、九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿 (時に、従四位上、前の若狭の守、後白河の上皇の近臣なり、聖人の養父) 前の大僧正 (慈円、慈鎮和尚是也、法性寺殿の御息、月輪殿の長兄) の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除したまいき。範宴少納言公と号す。自爾以来、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横川の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。
 
 
 親鸞聖人の出家以前の名字は藤原氏です。 
 天児屋根尊から二十一代の子孫、官位の最高職だった藤原鎌足内大臣の孫の孫で、近衛大将右大臣贈左大臣 従一位藤原内麻呂(この方は後長岡大臣あるいは閑院大臣という。正一位太上大臣 房前公の孫であり、大納言式部卿真楯公のご子息でもあった)の六代の子孫の弾正台の参議の藤原有国卿から五代の子孫 天皇の母の給仕をする職、日野有範の子です。
 したがって、冠を戴く髪が霜や雪のようになるまで朝廷に仕えるか あるいは院の御所へと昇進し 栄華を開くはずのお方でありましたが 仏法を広め、苦悩にあえぐ人々を救いたいという志が萌えあがり 仏縁にかきたてられて 九歳の春のころ 叔父の従三位範綱卿従四位上前若狭守で後白河上皇近臣で聖人の養父)に伴われて、さきの大僧正慈円(慈鎮和尚というのがこの人である 法性寺殿御子息、月輪殿長兼実公の兄)の御房を訪ねられて、髪を剃ってお坊さんになられました。
範宴の名をいただかれ、「範宴少納言の公」と呼ばれました。
 それ以来、じっくりと奈良の諸寺や比叡山に上られ、高遠な教学を学び、広く仏教学の真髄にまで達し、横河の首楞厳院に久しく伝わる恵心僧都の法流を受け継いで、仏教の教義に深くあかるくなっていきました。