〔上の続き〕
「生まれた、生きた、死んだ」
すべての人に当てはまる言葉だそうです。
 
本当にあなたは「生きた」?「生きている」?
真宗の「生きた」は「生かされた」の意味?
「生かされて生きている」とも言いますし、
何か変な感じですね。
 
親鸞を生きた」なら他動詞。自他力混合のようです。
 
でも、やっぱり「生きた」は「生きた」自力でしょう。
ここを「生かされた」と言えるひとはあまりいないのでは。
自力が無ければ墓碑にもその人のことは残らないということです。
それで良いとも言えるでしょう。
所詮DNAの相続の意味しかないという考えもあります。
その意味なら明らかに「生かされた」でしょう。
でも、安心が欲しい。生きた証が欲しい。何か救いが欲しい。
多くの人は心の中でそう思っています。
 
結局、ほとんどの人が生きた事実より他にこれといった証など無く死んでいく。
「生まれた、(何となくとか、生きるために)生きた、死んだ」しか無い。
 
そこで、救いはといえば、 
キリスト教では「生まれた、生きた、死んだ、よみがえった」
だそうです。復活です。
じゃあ、仏教(浄土教)は、
「生まれた、生きた、死んだ、往生した」でしょうか。
たぶん、そうでしょう。
「生きた」は自力、「往生した」は他力。
少し納得ですが、
この身今生では「一切皆苦」から逃れられないようです。
一つ救いは、
「生まれた、回心(えしん)させられた、死んだ」があるかも…。