親鸞聖人伝絵」は、親鸞聖人の曾孫の第三代覚如上人が、聖人の徳を讃えて、その業績を十数段にまとめたものです。絵師康楽寺浄賀が絵を描き、文と絵が交互になった絵巻物でした。
それが次第に、文と絵とに分けられ、文だけのものを「御伝鈔」、絵だけのものを「御絵伝」となって今日に伝わっているのです。
その後、布教効果を考えて、巻物から、多くの方が見ることの出来る掛図の絵伝に変わっていったようです。この工夫は覚如の長子存覚上人の工夫であろうと言われています。(存覚上人は、本来ならば本願寺を継ぐべき人ですが、生涯に二度父の覚如上人から義絶され、結局、本願寺を継ぐことはありませんでした。)
親鸞聖人伝絵」の最初のものは、親鸞聖人が亡くなられて33年後(覚如26歳)に作製されたとされます。
 
そんな絵伝の一幅目を絵解きしようと思っているのですが、よくよく見ますと、一幅目の最初は「出家学道」という場面から始まります。出家学道とは言っても、学道の場面もありませんので、出家得度の場面と言っても良いでしょう。一幅目の1コマ目と2コマ目、約40%を割いて描かれています。願照寺に残されている絵伝には母君がわが亡きあとを弔って欲しいという場面があり、「母の臨終の教訓」というふうな説明があります。 
 
絵伝の性格から、聖人の徳を讃えるに都合の良い場面を抜粋すると、誕生とか比叡山の修行とかは割愛してよいものと考えられたのでしょう。しかし、親鸞絵伝を見に来る方々は、聖人のことを知りたいのだと思います。そこで、今回の試みとしまして、出生、比叡山での学道を入れて絵解きをしたいと思います。
 
御伝鈔には学道の記述は、
「それ(出家)よりこのかた、しばしば南岳天台の玄風をとぶらいて、ひろく三願仏乗の理を達し、とこしなえに楞厳横河の余流をたたえて、ふかく四教円融の義に明らかなり。」
と寒湿論貧といわれる比叡山に上られ、20年間におよぶ学道の記述がこれだけです。訳しますと、
「そして、中国天台宗の祖、南岳大師慧思(えじ)や、天台大師智邈(ちぎ)が広められた三願仏乗の(空・仮・中の三種の観法によって悟りをひらく)奥深い教えを会得され、比叡山横川の首楞厳院に伝わる源信僧都の法流を受け継いで、蔵・通・別・円の四教がまどかに具わる天台宗の教学を立派に身につけられました。」
 
3コマ目の画面は第二段吉水入室です。
「ついに難行の道に見切りをつけて山を下りられた。」という断り書きがつけられるように、20年間のこのような修行では親鸞聖人の問題を解決するに到りませんでした。ただ、この20年間の修行がどんなものだったか詳しい資料がないことも事実で、それらのことから、詳しく書くには及ばないと判断されたのでしょう。