今日、たまたま二つのことが仏法と結びついて、ハッとさせられました。
 一つは、ブログのことを書いた本を購入しました。最初に、ブログの歴史があり、出始め当時は「ブログ」は初心者のための程度の低いインターネットアイテムと思われていたそうです。なるほど、自分もブログというものを、HPのできない人が仕方なく遊ぶ自己満足の道具程度にしか思っていませんでした。しかし、今ではブログの価値は誰もが認めることができるものになっています。たいそうなHPも日記以外は更新がされないことが多いとか。その日記だけを誰もが使えるような簡単な形式にしたブログが誕生したことで、ネットサーフィンではなく、インターネットへの参加人口は飛躍的に増加しました。
 「ブログ」は初心者のための程度の低いものと思われていた、と言うところは、「観無量寿経」に通じます。その昔「観無量寿経」は仏教初心者のためのお経だと思われていました。それを、ひっくり返して「観無量寿経」こそ私たちのための教えだと説いた人が善導大師です。この転換がどれほどの影響をもたらしたのだろう、と考えたとき、上記のインターネットのブログに喩えることが出来るのではないでしょうか。HPやブログがある中で、本当の中身のあるものはHPで公開したいところなのだが、それが出来ない人が「ブログ」を始める。一面はそうですが、HPの作成はみんなができるようなものではありません。ある意味、自力の苦行。それに対して、「ブログ」は誰でもその日から無料で始められる、他力の易行。簡単にできることによって、あっと言う間に、沢山の人たちの間に広がっていき、「ブログ」によって生きる喜びも与えられている(救われている)かも知れません。あくまでこれは譬えですが。
 もう一つが、肺癌になった人が一年間の闘病後に落語をした、その落語の中で、「第二の命をどのように生きようかと思ったとき、今までどおりではまた、肺癌になってしまう。どうしようと思って、気が付いたことは、すでにその道を歩いている人がいるということです。癌に打ち勝った人に会って、その人を手本にした人生を生きよう。」と、多くの方に面会してその生きかたを学んだと言っていました。
 これには、ハッとさせられました。すでにその道を歩いている「念仏の人」がいる。肺癌になって、一度死んだ命だから、第二の生きかたが見えてきた。私たちは「肺癌」よりも酷い、一生治らない病気(三毒)を常に持っているのに、それに気づかずに、毎日ただ時間を過ごしているのです。気づけば、目の前にすでにそれに気づいて人生を歩んでいる善知識がいるのです。今の毎日に疑問をもって、積極的に善知識を探しましょう。7年後にこの方は、自分が癌患者の生きる手本になって、落語で患者に元気を与えています。相続するとはこういうことなんだなぁと思いました。
 一日に二度も、生活の中で仏教の譬えにめぐり合えるとは、ありがたい一日でした。 合掌。