暁天講座に行ってきました。
 
 長浜教区満立寺住職黒田進師です。
 講題は「人身受け難し」。
 「人身受け難し」→「人の身を受けることは有り難し」→「わが身を受け止めることは容易ならん」
 日ごろ気づいておらない大切なことに気づいてくれよ=「ナムアミダブツ」ということ。
 聞法とは、「わが身を受け止めていく道」であるといわれました。
 
 一人で大きくなったつもりの生きかたは自力であり、
 「おかげ」を喜ぶ生きかたは他力である。
 「無縁社会」とか「無縁死」とかが問題になって取り上げられている。
 技術は発達したが精神は置き去りにされてきた証拠であり、
 便利がいい・あれが欲しい・あれが食べたい・あれがしたい
 という生きかたに対する問い掛けである。
 いまこそ、「死生観」が問われている。
 死ねるほど生き切っていますか?
 映画「蕨野行」での市原悦子さんの言葉「死を受け入れるということは、
 死ぬまできちんと生きるってことなのよね。」。
 沢村貞子さんは「丁寧な生きかたをしたい」。
 人間の死、命とは何か。死をとおして生を見つめるということ。
 あなたは、いつ終わるともない人生を大事に生きていますか?
 
 というようなお話だったと思います。
 「死ねるほど生き切っていますか?」というのは具体的に分かりにくいです。
 「生きるために死ねますか?」と言い換えて見たらどうでしょうか?
 
 生きるということは○○のために死ねるという○○を持つということ?
 「君のためなら死ねる」と言った岩清水君なら分かりませんが、 
 自分には無理です。(余談ですが、7/20に早乙女 愛さんは亡くなられました)
 確かに何かに打ち込んでそれのために死んでも良い
 という生きかたも素晴らしいでしょうが、
 ここまで書いてきて、「死ねる」=「死ぬことが出来る」の意味は
 積極的に死んでも良いということではなく、
 いつでも安心して死んで行けます
 という意味だと分かってきました。
 そんな身にしていただく手立てが真宗の教えなのだと、
 これで、今日の暁天講座の貴重な御縁が結ばれました。