今日は豊田のお寺様で布教大会がありました。特休を取って久々に一日聴聞を楽しみました。途中豊田のお寺様で住職と門徒さんを乗せて、晴れやかな道を足助までドライブです。
 10時半過ぎ、丁度法話が始まるときに法興寺様に到着。午前中4人の布教師の話をお聞きしました。
 
 お話を聞いて閃いたことを列挙して見ます。
真宗のKYは空気読めないではなく、悲しみを読め!であるとのこと、当にその通りだと思いました。
まどみちおさんの「リンゴ」の詩
  リンゴを ひとつ
  ここに おくと
   
  リンゴの
  この 大きさは
  この リンゴだけで
  いっぱいだ
   
  リンゴが ひとつ
  ここに ある
  ほかには
  なんにも ない
   
  ああ ここで
  あることと
  ないことが
  まぶしいように
  ぴったりだ
・この詩に感想があればと言うことでしたが、リンゴは象徴であり一つの喩えであり、リンゴによってまぶしいように気付いたことがあることを言い表しているのだと思う。少なくとも私は、私を感じさせられました。
・光のはたらきで暗闇の中の一筋の光にほこりが漂っているのが見えるということ。光によって、もともとあったちりやほこりがあぶり出される。煩悩を知らしめられるということでした。これを分析すれば、真っ暗では見えず、昼間の明るさでもほこりは見えない。真っ暗の中に一筋の光がさしたときに初めて見えてくる。この世が極楽のような生活をしている間は、仏の光明など見えてこないというイメージがよくわかりました。無明で暗く、明るすぎても智慧の光明は暗い。
・自分たちがよく使う「ご縁」があるとか、「ご縁」がないとかを、今の言葉でいうと、「何か情報を得る」のように感じました。「ご縁」を少しでも良いものにしたいという都合の良い欲求。「ご縁」を「ご縁」として放っておけば、天任せ運任せのようですが、少しでも良い縁を招きいれ、悪い縁を避けるような努力を払うことは、やるべきことだと思うしそこでいう「ご縁」とは、「情報」を中心とした生活活動ではないだろうか。よく言う「ご縁」はそんな表面の縁で、
そして、その「ご縁」の中で自らの計らいを超えて起こった結果に対して、初めて不可思議の力を感じさせられるのである。「ご縁」にも2種類あるのだ。
・仏法聴聞とは、仏様の教えを聴くのであり、教えを聴くということは仏の願いを聴くことである。娑婆の現実は、欲しいものを捜し求めて、人の願いを仏に向けている。
・仏の智慧に照らされるという、明るく生きられるための智慧(光)とは、具体的には何なのだろうか?法話ではそれは、癒し、心得、逃げ方などマイナスを認めて安楽(往生)を求めようとする、それに対して、各種のセミナーでは方便、処世術、マニュアルなどで世に対応する方法で安楽を求めようとする。ある布教師さんが「我々は生き方の問題と言って、実は暮らしを問題にしている」と仰った。
 愚痴が感謝に変わる智慧を得ることは、生活にどのように影響するのだろうか。どうも生き方と暮らしどちらか一つというわけにも行かないようである。それでも選ぶとするならば、それこそ生き方の問題であり、それが信仰となるのだろう。