昨日、守綱寺様のしんらん塾がありまして、久しぶり(1年以上ぶり)に出席させていただきました。テーマは歎異抄第10章。
 「念仏には無義をもって義とす。不可称不可思義不可説のゆえに」この一説の「無義」とは、人間を苦しめる偏った価値観による意味付けや考え方を破ること、「義」とは如来の意図のことだそうです。
 簡単に言うと「無いものを有ると思い、有るものを無いと思う」そんなあやふやな心、それは執着から発する人間の本質的な性質のようです。そんな心を知らしめる働きが念仏には有るということです。
 ないものをあるとする例は、恐れとか、先入観だとかなんとなく例もイメージできるのですが、あるものをないとする例はと言われるとすぐには思いつきませんでした。
 最近の選挙の例で言えば、麻生首相の自信とかは、ないところを誤魔化してあると見せているようですし、都議会選挙の責任は、あるのにないと言っていたり、格好を気にするとこんなことばっかりをやらざるを得ない、安らかさとは縁の無い世界となってしまいます。
 ところで、浄土というものは有るのか無いのかという話になると、いささか問題が複雑になってきます。浄土は有ると信じている人にはあるし、信じていない人には無いということになってしまいます。本当のところはどうなのでしょうか?
 浄土が有ると言い切ってしまうのは、ユートピアが有ると言うのと同じような気もします。哲学的に言えば浄土という言葉がある以上、浄土は有るのだとも言えますが、そんな有る無しの論義で、私たちは納得ができるのでしょうか。
 私たちは無いと都合の悪いものは有るとし、有ると都合の悪いものは無いと考えようとしてしまいます。そんな性質を見越した龍樹菩薩は、有無の見を破ると言い、親鸞聖人のご和讃でも有無を離ると引いていらっしゃいます。有るとか無いとか言わなくて良い世界がまた有るのですということ、このことを体解したときに、心の開放がもたらされ、安らかな世界、すなわち浄土が開けるという、そんなこんなを考えさせて頂きました。
 住職が課題として次の言葉を板書しました。
 宗教を求める人間の心
 宗教が求める人間の心

 上は欲望・煩悩の成すところが多く、宗教(宗派)が何万もあるのは、この宗教を求める人間の煩悩の数だけあるからです。宗教が求める人間の心は一つで、親鸞聖人はまさにここに迫る宗教を発見したのです。信心とは真の心であり、人間が起こすものではないと、仏様のお心なのだと受け取られました。だから人間にとっては、訳が分からず難信であるということです。この信心の心得違いを歎き書き連ねてみたのが歎異抄の異歎編です。
 次回から11章に入ります。時間があれば8/8(土)19:30〜守綱寺に行くと勉強できます。

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 ふと思ったのですが、歎異抄真宗マニフェストではないかと。真宗の宗旨はこうだと宣言し、こうしましょうと公約したことを簡潔にまとめたマニフェストだと思いました。違いを嘆いているので、こうしてはいけませんということが多いですが、何をすれば良いのか分かりにくい真宗において、なんとなくやることの指針になるようなことが書いてあるそんな書物ゆえに、みんな飛びつくのだと思いました。ちょっと、改善すればもっとすっきりしたマニフェスト(宣言書)ができるのではないかと思いました。