報恩講法話を聞く。
 頼むべきは阿弥陀如来…根拠。参るべきは安養の浄土…方向。
 人間は経験や体験を根拠にしているが、それは暗闇を手探りで歩いているようなもの。都合ですぐ方向が変わってしまう。

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 昔からの真宗法話である。
 社会活動を円滑にしていこうとすれば、経験を大事にしていかないと何もできない。‘弥陀におまかせ’とこの世で幸せに生きることとの兼ね合いはどこにあるのだろうか。全くの他力でこの世を渡って行けるだろうか。妙好人を例に出す場合も多いが、自分は決してそうなりたいと思わないし、価値観が違うと言わざるを得ない。
 この世で生きていくためには、経験が一番大事だと今は思う。経験することで上手になることで、世のため人のためになり、それが生きがいにもなり得る。これは宗教思想とは異にするものである。人間の幸せの問題である。
 疑問に思うのは、お東の、人間を無視するかの徹底した宗教主義的教えである。
 ちなみに、
真宗大谷派(東)の教え…阿弥陀の本願を信じ、念仏を申せば浄土へ往生する身となる。
東の宗風…ひたすらお念仏を申し聞法につとめる。朝夕のお勤めをする。祈祷、まじないや占いなどの迷信にたよらない。
 次は、
浄土真宗本願寺派(西)の教え…南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、つねに報恩のおもいから世のため人のために生きる
西の宗風…宗門は同信の喜びに結ばれた人びとの同朋教団であって、信者はつねに言行をつつしみ、人道世法を守り、力を合わせてひろく世の中にまことのみ法をひろめるように努める。また、深く因果の道理をわきまえて、現世利益やまじないを行なわず、占いなどの迷信にたよらない。
 自分は、西の教えの方に軍配を上げたい。結局、東は、この教えに縛られて不信を起こし先に進めず、逆に後退し念仏の声さえ出なくなりつつある。

 生きる意味を見つけようとすれば、大きく分けて自利と利他とがある。どちらに主をおくか。生きる意義・喜びは自己中心の自利より、周り中心の利他の方が意義付けしやすいだろう。そこに「おかげさま」という喜びと感謝が生まれる。
 どちらにしても最後に自分がどう感じられるか。その時幸せであるか、不幸であるかに掛けることになる。
 自分は、東以外のほとんどの宗派が掲げる「つねに報恩のおもいから世のため人のために生きる」というようなことに人生を掛けたい。これは一度の人生しか経験できないため(やり直しが効かない)違うかもしれないが、ノーベル賞受賞者が言っていたように、「理論物理学者たるもの大概のことは経験しなくても分かる」と言ってみたい。
 上記の発言は奥さんが海外旅行に連れて行って欲しいと言うのを断る理由として言ったのだが、今回受賞のためにストックホルム(スウェーデン)とオスロノルウェー)に夫婦で行くことになり、その海外での経験は考えていたものを大きく上回って、各国とも素晴らしかったと言っていた。人間は結局経験しないと本当のところは分からないということである。
 結局は臨終の間際に自己の経験から、いい人生だったとか不幸な人生だったとか決まるのだと思う。そこで利他の経験が大きく幸福感を増すのだと自分は思うし、そう信じてあとから来るものをも導きたい。
 宗教あるいはいい生き方を目指すものは、つねに報恩のおもいから世のため人のために生きることを意識するのが自然だと思う。(そんなこと凡夫には出来ないなどとひねらない方が良いと思う)
 
 そんなことを最近は考えています。