あるブログに(いつも引き合いに出してすみません)
 「一般常識と仏さまの常識は違うのです。
 だからお念仏をいただかないといけないのです。」
とありました。???
 
 このことを信じてお念仏をいただいたら、真宗の常識に従ったことになるのではないでしょうか。
 今、自分がやろうとしていることは、「五劫思惟」。頭を使って考えることです。信仰には頭を取れという宗教は多いのですが、それは往々にしてその宗教団体にとって都合が良いからだと思います。
 頭を使うとは、「あるがままに」とか「今、ここ」とか「自然法爾」とか「はからいを捨てて」などと簡単に思い込まないようにすることです。何故、あるがままが良いのか。何故、今ここなのか。何故、はからいを捨てるのが良いのか。要するにそんなふうに考えることです。よく考えて、自分の立ち位置をしっかり意識した上で動くようにしようということなのです。
 考える「人生の一大事」は、

  • この人生で究極的に存在しているものは何だと自分は思っているのか。
  • 「人生とは…である」とわけ知り顔にいう自分は、何をもって「知った」と言っているのか。
  • この人生で何が善で何が悪か、つまり私たちはどう生きるべきか。何をなすべきか。あるいは、なすべきでないか。

 
 上記の質問に真宗門徒なら、①阿弥陀仏②何も知らない凡夫である③念仏に生きる、そんな答えが出てくるのでしょう。そう言い切れる金剛の信心が欲しいものですが…。

 要するに考えるとは、人さまに洗脳されたまま生きてはならないということです。自分が意識して一挙手一投足を選ぶこと、これが考えるということです。 
 だから何も考えずに「お念仏をいただかないといけないのです。」と言われてお念仏をしていたら、常識に従っているのと同じことなのです。人に言われたからやる、ではいつまでたっても自分の糧にはならないし、そんなことではいつまでたっても悩みから開放されないでしょう。念仏しているにもかかわらず、人生いま一つ楽しくないと思えてくるのはそんなところに問題があるのではないでしょうか。
 よく考えて見ると、上記の三つの問いの私の答えは、真宗の信心とはほど遠かった。そんな気づきが大事なのです。そしてそのような人は念仏の人ではないこともわかってきます(他の何かはわかりません)。真理に到る方便の教えは無数にあります。だから、お念仏をいただいても、いただかなくてもいいのです。面々の御はからいなのです。教団の外から見るとそんなところです。