真宗の葬儀では清め塩は使わないことがこの三河地方では徹底されつつあります。清めの塩は、死の穢れを払うマジナイ的な風習として伝えられる行為なので、死を穢れと見ることのない仏教では、清め塩は必要がないということなのです。
 真宗門徒は、占いや日の吉凶などの迷信を問題にしないという生き方を教えられます。
 それはそれで、不確かなものに惑わされずに良いことだと思います。しかし、門徒のお宅に火除けの札はないでしょうか。交通安全のお守りはないでしょうか。初詣に行く人と行かない(お寺に行く)人とどちらが多いでしょうか。
 「マジナイはマジナイでしかないということに気づきたいものです。」と簡単に言ってしまって良いものでしょうか。もう一度よく考えるべきだと思います。
 はっきり言って、それぞれの立場が違うということでしょう。門徒(本物ではない)でも阿弥陀の本願や浄土の話はどうも信じられないが、占いは信じるという人がいるかも知れません。その時にそんなことは迷信だから、アホらしいからやめなさいと言えるかということです。そんなことより弥陀の本願を信じなさい、ということにどれだけの実効があるでしょう。布教の難しさでもあります。
 仏教的な教えは、すべてを包括するような、大きさや柔らかさにその良さがあるように思います。迷信を頭から否定しては、同じ次元に自ら貶めているようなものです。
 それでも、もし人が迷信、マジナイ、縁起担ぎ等をしているのを止めさせたければ、自ら、葦を「よし」と言っていないか、終わりの変わりに「お開き」と言っていないか、オカラを「卯の花」と言っていないか、すべてを省みてから、人に説くことをお勧めします。
 ちなみに映画をあらわす「キネマ」は「シネマ」のシネが「死ね」に通じるところからの言い換えだそうですが、今では「キネマ」の方が普通に使用されています。また、亡くなるという言葉も「死ぬ」の意味を避けた用法だそうです。
 2001年アルクのCATクラブに「アルク英語シネクラブ」がありまして、そのときはさすがに変なネーミングだと思いました。
 

 これを書き終わって、「葬儀のマナー」について一考しているサイトを読みました。TVで常識としてやっているマナーもプロの葬儀屋からすると説明不足だったり、自宅やお寺での本式葬儀が会館では略式になっていたり、その常識には立場が係わってくるようなことも書かれていました。葬儀屋さんはいつも僧侶のお叱りの対象と決まっていますが、その立場を客観的に見たら、どちらにも理があるようです。
 そして、その考える葬儀屋さんが言うには『形式より何より大事なのは「心」です』ということ。すべて人在ってのこの世界、迷信を信じるのも人間、その人を思いやる心遣い一つで真理に少しでも近づける、そんな思いを持ちました。お寺さんも目的は何かに立ち返って、最善の方便をもっと使ってほしいものです。

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この数日間、出口日出麿著「生きがいの探求」より、何かを感じたり、考えさせられる言葉を引用しています。
今日は、出口日出麿の思索ノートより抜粋され、「生きがいの探求」の「はじめに」に書いてあることを全文引用します。
『いろいろ、毎日考えている。この世の中を、人というものを、いろいろと考えている。
 とくに自分というものを、批判的に反省的に、ことごとに考えてみる。なかなかわからない。他人の一挙一動を、いろいろと、純客観的に考えてみる。世事のうつりかわりというものを、つぎつぎと考えてみる。― 別に、なんにもわからない。
 ただ、無限小から無限大までが、この世の中には、平面的にも立体的にも存在しうるものだ、ということがわかったばかりである。
 自分は、いま、こうやって、この世に生まれさせられてきている以上、ここに何かの使命は持っているにちがいない。けっして、世間的なはなばなしい、名誉や功名を得んがためのみではなかろう。とにかく、自分というものが、50年なり60年なり、この世に在ったという記念には、何かを後世に残さねばならないと思う。縁の下の力もちで世に在ったという記念には、何かを後世に残さなければならないと思う。縁の下の力もちで結構だ。たとえ、何事もなしえないでも、なそうとして努力した跡だけでも、残さねばならない。
 自分はこう考えた、こう苦しんだ、こう悟った、ということを、そのときどきに記しておいて、自分より後からくる人々の参考にしたいと思う。
 このごろ、とくに、それがむだでないと思うこと切である。むろん、あとになって考えてみれば、「あのころは、なんとつまらないことに苦しんだんだろう」というようなことが、たくさんあるに違いないと思っているのだが、しかし、要するに自分というものの考え方の、進歩のしかたをみるのも、自分にとってはよいことだし、他の人にとっては、いろいろと思いくらべて、参考になることもあろうと思う。
 とにかく、自分が人間であった日の記録なのだから、その正邪良否は別問題として、何らかの参考になることであろうと思う。』

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 別に大本(教)に興味があるわけではないが、言っていることには惹かれる部分が多い。真宗と似ているところもあるし、よりハッキリしてくるところも多々ある。なぜ、違和感なく響いてくるのか、自分なりの推測がある。明日以降の引用で、その辺のところを説明したいと思います。