私たちは人間の目線でものを見ることに慣らされています。今日TVを見ていて、煮魚は魚を基準にすれば、「煮られ魚」であると、焼おにぎりは「焼かれおにぎられ」であるというようなことを聞いて、如何に自分(人間)中心の物の見方の世界に生きているのだろうと思った次第。

 「丸明」という会社。危機管理という言葉を知っているのだろうか。まさか自分の所はあんな馬鹿な対応はしない。船場吉兆とは違うんだ。うちの会社は大丈夫(自分が社長だから)とでも思っているのでしょうか。真偽は分からないので、今は何とも言えませんが、もし社長の言っているほうが正しいとしても、TVに映っている姿は悪印象です。   「飛騨牛」という名前も牛の立場から見たら、正確に名づけて欲しかったでしょうね。

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 哲学と宗教(真宗)との違いをはっきりさせたいと言うのがこのところの自分の課題ですが、哲学の本を読んでいて、よく理解できない難しい思想と、哲学と言っても自分を正当化するたんなる言葉遊びではと思えるようなところが出て来ました。元々哲学はそれを弁護のワザとして使っていたところもあったようで。そんなことを思っていたところに、鳩山大臣が「死に神」に抗議ということがありました。
 鳩山邦夫法相は20日午前の閣議後の記者会見で、就任以来13人の死刑を執行した法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事を取り上げ、「彼ら(死刑囚)は死に神に連れて行かれたのか。違うだろう。執行された方に対する侮辱で、軽率な記事に抗議したい」と憤りをあらわにした。』 
 このことに反論するなら、鳩山大臣が「私は断固として死に神ではありません。」と言えばいいところを、「死刑囚が死に神に連れて行かれたとしたら、それは彼らに対する冒涜であろう」と論理をすりかえました。その方が大衆に受けが良いと狙ったのでしょうが、そこが弁述のワザであり、言葉の遊びなのです。死刑囚にとっては、命令した人に殺されたことに代わりはありません。そこをよくよく考えなければなりません。目線が違うのです。鳩山大臣は、「死刑囚にとってはもしかしたらそのように見えるかも知れませんね」くらいの状況認識力(俯瞰力)が欲しいところです。自分たちの正義だけを声高に叫ぶ法務大臣では危なっかしくてしょうがありません。