「死後の世界は?」の問いにどう答えるでしょうか。
 “後光のさしたすばらしいもの”と言える人、“『虚無の世界』無である”と言い切ってしまう人。大きく分けるとこの二つがあるのですが、お釈迦様は無記といって「分からない」と答えました。
 「死後のことはわからないでは、当たり前で、何の解決にもなっていないではないか」と思われるかもしれませんが、このような不安が解消されないのは、「不安の発想」をささえている物の考え方が問題なんだそうです。
 「分からないでは、分からないではないか」と考える発想の人は、世の中がたいてい、“解決ずみ”のように見えているのではないでしょうか。何が正しくて、何が間違っているかは、すべて標準や定説があって物差しが出来上がっている。実際に生活一般では定まっていることも多いです。それは、規則や法律です。常識もそうかも知れません。
 しかし、必ず出会わなければならない“死”の向こうには定説がありません。だから、それでは不安だということだと思います。
 定説は、時代やその時代に生きている人たちによって、生活に便利なように決められたものです。それが「人間の物差し」で、一番簡単な例がお金に換算することです。すると、いのちの値段なんて言われることもあります。
 それに対して「仏の物差し」は、人間には想像ができないもので、これを考えるといったいどういうものだろうと思ってしまうのです。一時は「美しさ」を物差しにしようとか、「慈悲(利他)」を物差しにしようとか考えましたが、それも結局は人間の物差しであることに変わりがありません。
 解決済みではない、定説がない。そのようなぼやっとしたものが「仏の物差し」であると感じました。「死後の世界は分からない」が「仏の物差し」なんだと、人間には決められないことがあるし、世の中そのようなことのほうが多いということに気付くこと。それが「仏の物差し」であると感じた次第です。 
 仏の物差し=宗教、人間の基準では計れないもの、平等に幸せになれるもの
 人間の物差し=哲学、学問、人生の役に立つもの、幸不幸は相対的なもの
 「死後の世界は?」の問いに「人間の物差し=自分の都合」で答えをだしている場合が多いのです。実際は分からないのですから何を言ってもいいことになります。死後の世界を語っている人がどのような立場で話をしているかをよく見てみることです。本当の答えはあなたの中にしかないのです。教えてもらうものではありません。騙されないように注意しましょう。