「教育問答」なだいなだ著 1977年12月20日初版/1994年7月30日23版
 子供の教育に自信が無いので子供は欲しくない。もしくは生まれてくる子供の教育がとても心配だ、という人は多いと思う。そんなAさんからの相談からこの本は始まる。3ヶ月の子供の教育に自信がないと言う。よくよく聞けば妊娠3ヶ月で悩んでいるとのこと。生まれてくる子のことを心配してもしょうがない。子供は育つものですと言えば、そんな無責任なことは出来ないと言う。
 なだ氏は考える。子供の育つように育てて後の責任は親がとるという態度と、親が責任をとらなくても良いように育てる態度では、どちらが無責任なのだろうか。
 なだ氏のような無責任になれるといいですねというAさんになだ氏は言う。「無責任になりたいのなら、簡単ですよ。自分が無力だと認めさえすればいいのです。でも、無責任も大変ですよ。いつもはらはらしていなければならないから。」
 こんな調子でAさんとの会話で話はつづいていく。

  • 第1章 教育は大切か
  • 第2章 教育戦争
  • 第3章 学校のあり方について
  • 第4章 先生の役割について
  • 第5章 しつけ、この矛盾にみちたもの
  • 第6章 学ぶ主体の確立―学ぶこと、教えられること

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 クイズへキサゴンを見ていると、この国の学校教育は大丈夫かと思えてくるが、生きるためにそれ程の学校教育はいらないのかもしれない。だとすると、今の義務教育は誰のためのものかが透けて見える。
 義務教育が終わって社会に出ることを考えれば、本当に必要な知識は、住民票やパスポートの取り方とか、各種控除とその申請方法、年金の仕組み、消費者教育、詐欺の手口等々、生活に必要な全般を一通り教えてあげないといけないのではと思う。(大人でもTVの見方を知らない人が多すぎる。)
 それらを全てマスターしろと言うことではなく、そのようなものがあるということ、そして分からないときには、相談する窓口に相談できることを教えるべきである。
 これからどこに相談していいのかわからないという人が溢れてきて、行政若しくは民間のNPOなどというものが困っていくのは、うすうす目に見えている。それを強者と弱者とか色分けしたりするが、弱者もうまくやられた感がある。無知にすることで、いいなりにできた時代があったのだと思う。その反動がクレーマーというまた新手の無知を生み出した。仏教でいえばますます無明は深まると言うことのようだが、手がないわけでもない。
 ひとつ言えることは、小さいことでもしっかりやらなければならないことがあるということ。今当選している政治家は困るかも知れないが、国民が100%選挙に行ったら、どこの国にしても必ず変わるだろう。
 中学卒業でも立派に生活している人がたくさんいて、その人たちが選挙にも行っているとすれば、高学歴でも選挙に行かない人よりもよほどしっかり考えていると思う。飾りの学歴が闊歩する時代は終りにしよう。
 知識だけでなく、市民としてやらねばならないことを学校でも教えられるようになったとき、地方自治とか言っている、その土台がやっと出来るのであろう。(地方分権など今より少し良くなる程度で、自分のことしか考えられない教育をしている限り、自治など程遠い。教育も分権するのが絶対条件。)

 知識教育が大事だとすれば、知識の勉強は一生涯通じてできるということを、知るべきであろう。知識なんかなくても選挙に行く。これが本当の知識人である。