「高僧伝7 親鸞 大迷大悟の人」山崎正一集英社
 親鸞聖人のことを知ろうとする人にお勧め。すごく良くまとめられています。前半は親鸞伝、後半は教行信証のことを分かり易く取り上げている。前半部分に和讃のことが書かれている。空也上人以降、仏や浄土を讃嘆する日本語による讃歌、すなわち「和讃」が多く作られるようになったという。それが、今様の法文歌となって、庶民の口の端にのぼり、多くの人々に愛好された。先日書いたように和讃に親しんでいたということである。それを、歌うことにより、人々は、心の悩みや苦しみから解放され、なぐさめと和らぎを与えられた。親鸞聖人は、このような梵唄の専門家であった。
 後白河院の撰した「梁塵秘抄」に収められている今様の法文歌を一つ紹介する。
  仏は常に いませども
  現(うつつ)ならぬぞ あわれなる
  人の音せぬ暁に
  ほのかに夢にみえたまふ

 法文歌は、経典に依拠するのが建前で、この歌も「法華経」寿量品の偈に基づいている。「衆生の身近に常にいるのだが、迷える衆生の目には、仏の姿は見えない。そこで、お籠もりをして、一心に仏を憶い仏を念ずると、その暁に、夢幻のごとく、仏が姿を現される」という意味である。親鸞聖人が19歳の時、磯長の廟へお籠もりして、聖徳太子の姿をした救世観音の示現にあずかったことは、この歌に似た体験だったのだろう。