仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(9))(2007.8.11の続き全10回)
 このように、私を中心とするのではなく、他を先とするものの見方ができるようになると、「戒」も変わってくる。「五戒」や「十戒」は「〜すべからず」という禁止項目が設定されたものであるが、特に大乗仏教では、戒は「三聚浄戒」として把握されるようになった。三聚浄戒は「摂律儀戒(しょうりつぎかい)」と「摂善法戒(しょうぜんぼうかい)」と「摂聚生戒(しょうしゅじょうかい)」の三つを言う。「摂律儀戒」は禁止条項を守ることであるが、後の二つは善をなし、衆生に利益を与えることを生活信条とするのであって、「戒」により積極的な意味づけがなされている。すなわち、衆生を救済することを目指すことこそが戒と自覚されたのである。
 先に何度も述べてきたように、「如実知見」を邪魔するものは、偏見・先入観・固定観念であった。偏見とか先入観とか固定観というものが身についてしまうのは、物事の一面を見て、それがすべてと思い込むからである。人間はさまざまな角度から自由に評価しなければならないのに、財産の多寡だとか、家柄だとか、出身大学だとか、職業だとか、そんなつまらない世間的な評価基準に影響される。だから、仏教は縁起の立場でものを見ることを教える。物事はどんなものもさまざまな原因や条件から形成されているから、さまざまな角度から見なければならないし、またそれらは絶えず変化するから、固定観念を持ってはなりませんよと。だから、縁起の立場とは、言い換えれば「立場のない立場」で、立場を固定してはならないという立場を意味する。このものの見方、生き方が「八正道」であり、「中道」であるが、そのきっかけが、ちょっと他人の立場に立ってものを見てみるということなのである。
 もし、今までしがみついてきた自分を少しでも離れられれば、自分が恥ずかしくなる。いや、自分のよいところも見えてくる。もちろん、そばにいる人たちの評価も違ってくる。そうすれば、世界は見る見る間に変わって、見えてくるものはまったく違うものになる。(10(最終回)に続く)