額田町樫山の浄泉寺(真宗高田派)さんで永代経資堂法要、法話戸田信行師
 「千の風になって」に願生心を目覚めさせるきっかけになればと願っているというお話を聞いて、「私のお墓の前で」「あなたを見守る」という、「私、あなた」の感じ方が人それぞれであることを知った。この歌を聴いて、亡くなった人の立場で聞くか、残された人の立場で聞くかどちらにウェイトがあるかによって還相回向往相回向のどちらにも受け取れるということである。「死んだ後はお墓の下にはいません。浄土に行っていろんな形で阿弥陀さんのお手伝いをさせていただいてます。」という庄松はそこに還相の回向を見ていたと思うが、見守られているあなたは、「私も浄土に行きたい」と思っても不思議ではない。
 「知識」と「智慧」について。知識は大事だが、傲慢になり邪見、驕慢になる。邪見とは心が歪んで悪いようにしか受け取れない、驕慢の驕とは自ら誇り、慢とは他と比較して誇ること。そうならないためには、「信心の智慧」が必要である。蓮如上人御一代記聞書の中に「総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。此の心にて、世間には、物もしなら(仕習)うなり。仏法には、無我にて候ううえは、人にまけて信をとるべきなり。理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり」とあるのを紹介して、誰でも自分のほうが上と思いたい心を持っていることを改めて知らされた。戸田信行師のお話は、気づかせて頂けることが多い。

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「人にまけて信をとるべきなり」というのは論語とかのようだが、最近特に思うことは真宗では一体何をすれば救われるのかということである。救われるとは安穏に生活できるということ、もっと言ってしまえば涅槃の境地になれるかということである。そのためには「○○するべきなり」ともっと言ったら良いんじゃないか。蓮如さんはそこのところに目をつけて、「人にまけて信をとるべきなり」と明瞭に世間での処世術(人生相談)まで言い得たひとのようである。今の真宗には、そのような個々の人に与える処方箋のようなものがないように思う。「あなたはあなたのままでいい」というのは、丸投げではないだろうか。良く考えれば、世間のことは自分で何とかしなさいということになるが、それでいいのだろうかと思っている。