今日(7/27付)の中日新聞を読んでいて二つの記事が目に付きました。
 一つは3面の名誉殺人の記事です。名誉殺人とはレイプされたり、親族の望まない男性と関係を持つなどした女性を「一家の恥辱」として肉親が殺害する行為を言うそうです。「自殺」と扱われることも多いと見られ、実態を把握することは難しいとのこと。そのような名誉殺人が世界で年間5000人もの犠牲者を出していると推定(国連)され、西アジアなどで多いとされてきたのだが、世界各地にじわりじわりと浸透しつつある現実があるといいます。
 仏教的に考えて見るといかがなものでしょうか?
 もう一つの記事は、30面の山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審第7回公判で被告が「ぼくは死刑になっても仕方ない。来世に行って先に(本村洋さんの妻)弥生さんの夫になる可能性があるが、そうなると洋さんに大変申し訳ない」と話したとのことです。
こんな人の弁護のために輪廻転生を利用するとは。被告はすでに、人間界にいる意味がないのではないでしょうか。この弁護団も地獄を忘れています。いやすでに地獄の入り口に立っているのです。そのことにこれっぽっちも気づいていません。この被告と弁護団は人間というものをなめています。

 被告は来世も人間に生まれ変わると思っていますが、そこをよく教えてあげなければいけません。この裁判の被告は、仮に懲役刑を終えて社会に出てきたら「何でもあり」と勘違いしてしまう人間になるのではないでしょうか。 あえて言わせてもらえば、シンガポールの鞭打ちの刑に処して(1回の鞭打ちで失神してしまうほどで、刑が終わった後には皮膚が破れて座ることも出来ないそうです)、すべて真実を話させてから反省なりお詫びなりさせて、それから本当の刑罰を決定しないと裁判自体がゲームのように勝ち負けを争う場になってしまうのではと思ってしまいます。
 この件も、仏教的に見るといかがなものでしょうか?