戸松政憲師の仏説盂蘭盆経についての法話真宗の寺院とお盆の行事はなかなか分かりづらいものがある。それは先祖に対して追善供養ということをしないし、そのため一般的な行事である精霊棚を飾るとか、ましてや迎え火、送り火などはしないというところからお盆の宗教的意味は何ぞやということになる。
 真宗のお盆の意味は、亡き人の命と引き換えに、仏法を聞ける機会を与えられた、とにかく、仏法を聞くご縁としてお盆は意味を持つ。「本日ここに法名○○の盆会にあたり、有縁の人々相寄り集い、亡き人を偲びつつ如来のみ教えにあい奉る。敬って申す。」の後に重誓偈を唱える。こちらから回向をするのではなく、あくまでもお参りする方が空しく生きていないか、と問い直す機会・ご縁とするのがあえて言う真宗のお盆会である。
 では、仏説盂蘭盆経は何を言いたいのか。お経の通りにすると施餓鬼をしなければならない。百味の御食を供養しなければならない。お経には陰顕釈があり、表面上の意味と隠れている意味と違うことがある。精霊棚にご馳走を供養したりするのは財供養である。在家の方がお坊さんに布施するのは財施である。それでお坊さんは食べていける。それに対してお坊さんは在家に法施、法を施す。その互いが敬いあって成り立っている。
 そこで仏説盂蘭盆経の意味だが、言いたいことはお坊さんと「同心同調」しなさい。すなわち「三法に帰依しなさい」ということである。しかし、お釈迦さま本人がそれを言ったのでは、言われた方も「そんなことを言われても」と信じることが出来ないので、大勢のお坊さんに百味の御食を供養しなさいと言われた。何故そのようなことを言われたかというと、お施餓鬼をすることによって三法の大事さに気づくことができるからである。お坊さんに供養することは、三法に帰依した結果私が救われるということを証明させるための方便だったのだ。
 真宗の教えは誠にむずかしい。まとめ方が下手で、異論もあろうが、簡単なお盆の説明があれば教えていただきたい。

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 昨日のニュースから一言。県庁や市役所のトイレに和紙に包まれた1万円札が次々と確認され、一緒に置いてあった手紙には遺産金の一部で、修行の糧にお役立てくださいと書いてあったという。同一人物が全国にばら撒いているのか、あるいは、何らかの集団による布施なのか。自分は亡くなった後に遺産の一部(10%くらい)をお世話になった人たちに寄贈することに賛成なのだが、今回の事件はもうちょっと目的をはっきりしてもらいたいと思った。結局拾得物として扱われ、最終的にどこへ行くかは知らないが、多分県庁の特別会計か何かに入ってしまうのでしょう。せっかくのお金が何の役にも立たないし、寄付者の意思も反映されなくなってしまう。
 それとは別に、北九州市小倉北区では独り暮らしの男性(52)が自宅で亡くなり、死後約1カ月たった状態で10日に見つかった。この男性は昨年末から一時、生活保護を受けていたが、4月に「受給廃止」となっていた。市によると、福祉事務所の勧めで男性が「働きます」と受給の辞退届を出した。だが、男性が残していた日記には、そうした対応への不満がつづられ、6月上旬の日付で「おにぎり食べたい」などと空腹や窮状を訴える言葉も残されていたという。
 片一方では、有り余った?お金をバラマキ、片一方では52歳というまだまだ生きていける人が食うに食わずで死んでいく。そんな事件がたまたま同じ日に報道された。
 政治とは、この世の中のプラスとマイナスをうまく均していく仕事だと思う。今学校で「最大多数の最大幸福」などという言葉は教えないのだろうか。結果だけからすると今の政治はやはりどこか間違っている、というか庶民のことなどイメージも出来ないのであろう。強行採決も結構だが、「多数決」とは、勝ったほうが少数意見を最大限尊重しなければならないと教わった。戦後教育はおかしいと一概に言われるが、都合の良いようにおかしく変えたいのはいったい誰だろうか。選挙が近いがポスターを見てもどうも代わり映えしない。少なくとも政治家は弱者と強者を共に生かすコーディネーターであってほしいし、その利害の渦中に入って溺れるような人は政治家になってもらいたくない。
 裁判員制度が実施されるのなら、いっそのこと参議院議員も抽選で決めたらいいのではないかと思う。