「明るいニヒリズム」(中島義道著)という本を読んでいて、キーツという詩人のことが出ていた。
そして、「ネガティブ・ケイバビリティ」ということが書かれていた。
ネガティブ・ケイパビリティとは、ウィキペディアによると、

詩人ジョン・キーツが 不確実なものや未解決のものを受容する能力を記述した言葉。日本語訳は定まっておらず、「消極的能力」「消極的受容力」「否定的能力」など数多くの訳語が存在する。

その本では、「負の能力」と呼んでいたが、
何かができる能力ではなく、何もできない無力感や空しさに耐える能力のことだそうだ。
震災の復興のニュースに関しては、ネガティブ・ケイパビリティを発揮しないと
到底ついていけない。
 
飢饉を目の前にした親鸞が凡夫を自覚したのもネガティブ・ケイパビリティに似た状況だったかもしれない。

負の能力を伸ばすのは大変である。なぜなら、世の中ではすべて「正」の能力を開発することが期待されているのだから。ほとんどの人は、「存在」や「時間」や「自由」や「偶然」や「因果律」や「私」や「善」など、世界の秘密について気になりながらも、それにかまけることのないまま、ある日ふっと息を引き取る。
でも、何かの折に、生きていることが耐え難くなり、「一体自分の生きている世界とは何だろう?」と心の底から疑問に思って周囲を見回したとたん、これまで理解していたかのように思い込んでいたこれら概念は、じつは果てしない不確実さ、不思議さのうちにあることを悟る。
いままで自分を苦しめてきた事柄のほとんどは、「こうだ」と決めてかかったことに基づいていた。どうもそのすべてが朝靄のようにとりとめもないものであるらしい、これを全身で実感するとき、彼はほっと救われるような気がする。
しかし、ほとんどの人は(心の傷が癒されふっと幸福を感じることがあり)油断するとここで留まってしまい、また普通の世界に戻っていくのだ。
「明るいニヒリズム」(中島義道著)より

親鸞聖人のおおせには、
「善悪のふたつそうじてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしるとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめども、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」
キーツの500年以上前にネガティブ・ケイパビリティを感じとっていた、その言葉が現代にも重く響いてくる。