先日から始まった「ダメージ3」というアメリカドラマを見ていますが、
昔ながらのアメリカドラマで、ハリウッド映画の衰退の原因がわかるような気がします。
(アメリカでは人気があるので3まで続編が出来ているのですが…)
確かに娯楽としては、面白いかもしれませんが、奥が無いように思われるのです。
映画「ボーン・アイデンティティー」を録画して見ましたが、これも
大ヒット?したとしたら、その時代の賜物としか見られません。
まず、カーアクションというのが古い。
それから、現実の世界で絶対にそうは動かないだろうというところの演出も古いです。
昔のホラー映画は、わざと危険な方に逃げて、ハラハラさせられましたが、
今ではもうドリフのコントのようなものです。
そのような演出はうそ臭くて、興ざめだし時間の無駄に思えてしまうのです。
そして、自分は映像だけが面白いものではなく、
考えさせられる脚本の面白さ、奥の深さがあるものに
どうしても興味が行ってしまいます。
そういう意味では、「アバター」は奥の深さを狙ったけれども、
やっぱり大雑把で陳腐なテーマ設定が、3Dとかの話題性に
負けたような印象です。
 
そこで、今嵌まっている屍鬼と比べると、作品の奥の深さに
格段の差がでています。ただ読ませるだけでなく、考えさせるという
ある意味、作品を創作する上での基本ともいえる要素、
作品が後世に残る価値のようなものが、まるで違うように感じられます。
 
どれだけの人が、『屍鬼』の上下巻1271ページを読むかはわかりませんが、
現実離れした想定の中に、非常に緻密にテーマが盛り込まれており、
読む人、読む人で必ず何かを感じとるであろうと思えるのです。
医師である敏夫と、僧侶である静信の対照的な生き方の違い、
"起き上がり"の意味、村社会(人間)の閉鎖性、支配と共存関係。
すべてが、今を生きている人間に対する比喩、譬えのように感じます。
"屍鬼"は弱いものを食い物にする人間自身ではないか、
一度死んでから起き上がるというのは、
教育(環境)の違いの結果、悪の道を悪とも思わない人間を生み出すことではないか、
それは少なからず私自身のことではないかとも、自問させられるのです。
しかし、作者は決してその生きかた、"起き上がり"と呼ばれる吸血鬼(屍鬼)さえも
その生き方を否定していません。
それぞれの"人間"と"吸血鬼"は自分が生き抜くために、
排除し合わねばならないのですが、作者はそれを必然のこととして
淡々と描いています。個々がそれぞれ殺し合おうが、助け合おうが、
縁の中で考えれば良いと言っているようにも見えます。

主人公のはっきりしない小説って、
前にも書きましたが、アニメの主人公だと思っていた清水恵が1話で死んでしまうとか、
夏野も良いところまで主役だったし、俊夫は最後まで主役級、でも影の主役は沙子(すなこ)、
で主役は僧侶の静信となるのでしょうか。
もともと、「屍鬼」というのは小説の中で静信が執筆している小説の題名という設定ですので。 
 
小野不由美という作者の本当の作成意図を聞いて見たいものです。
すくなくとも小野氏は誰にスポットを当てて書いたのか。
何にしても深い、…とひいき目に見てしまいました。(アメリカ版サスペンスがあまりにもちゃちだから)
 
調べて驚きました。
ミステリー作家・綾辻行人の妻。夫の代表作『十角館の殺人』のメイントリックは彼女の発案による。 だそうです。
もっと驚いたことに1979年 - 大谷大学文学部仏教学科に入学
これで「屍鬼」作品中に漂う、何か他力を感じることのできる雰囲気に納得がいきました。
自分の感性もまだあながち間違っていないかな?最近ちょっと心配だったので…。
 
今日、第10話「第悼話」。アニメはhttp://www.megavideo.com/?v=5XYKXA61。