節談説教研究会より「節談説教」第5号が届きました。今回4月の発行が遅れたとのことですが、説教本の復刻など貴重な編集になっていると思います。相当なご努力とエネルギーが費やされていることだと思います。会費をとって活動をすることのプレッシャーは大変のことだと思いますが、これも府越師の情熱の賜物だと感心しております。ますます良いものを、出来る限り続けて発行していってもらいたいと念願いたします。
 節談説教研究会も年数を重ねる中で、こうやって冊子が残っています。
 自分も、毎日の仕事の中で、何か残るものを作って残しておきたいといつも考えています。お客さまの情報は最低必要で作っていますが、今度こそ御寺院様の資料を作ろうと少し前から思っています。これは社内でもやろうとしてなかなか出来なかったことです。完成のイメージも無い中で、「何故できないのだろうか」と、できない理由から考えて見ました。多分、これを作っても何の役に立つのかとか、欲しい情報が得られないとか。役に立つと信じてまずは初版を作ってみないと始まりません。幸いにして担当寺院が少ない今、絶好のチャンスではないかとも思っています。
 本当のところ言って、これがやりたいということがない中で、沸々と燃えてくるようなものがありません。少なくとも何かを残して置かなければという焦りみたいなものがあることは事実です。あと10年で何ができるのだろうか。まずこの1年で何をしたら良いのか。
 とりあえず、生活のために仕事をする。先日の布教師さんのお話では、「とりあえず」の人生を止めようといいますが、そんなエネルギーも出てこないのが実感です。「とりあえず」でない人に会って話を聴く、と言っても「とりあえず」でない人がどれだけいるのでしょうか。結局、「とりあえず」動いていろいろなことに当たるしかありません。もう少し先が見えると良いのですが。
 
 昨日は、帰りに足の遠のいているJ寺様に行こうか思い、向かっている最中に、ふと途中のお寺様に寄って墓石の話をしているうちに、目的のそのお寺様のところにはやっぱり行くの止めようとなってしまいました。行きたくない理由があるのも事実だし、行って話を聞いてみたいというのも本当のところなんですが、結局行かなかったのも何かのご縁でしょうか。この後どうしよう? 
 今日は、M寺様の漆の剥がれを補修しに行って来ます。