「えらばず きらわず みすてず」〜竹中智秀〜
 私たちはこの言葉とは反対に、自分の都合で縁あるものを選び取り、嫌って見捨ててしまう心を持って生きている。
 
[唯信鈔文意](p.551~552)
「不簡貧窮将富貴」というは、「不簡」は、えらばず、きらわずという。「貧窮」は、まずしく、たしなきものなり。「将」は、まさにという、もてという、い(率)てゆくという。「富貴」は、とめるひと、よきひとという。これらを、まさにもてえらばず、きらわず、浄土へいてゆくとなり。
「不簡下智与高才」というは、「下智」は、智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は、才学ひろきもの。これらをえらばず、きらわずとなり。
「不簡多聞持浄戒」というは、「多聞」は、聖教をひろく、おおく、きき、信ずるなり。「持」は、たもつという。たもつというは、ならいまなぶことを、うしなわず、ちらさぬなり。「浄戒」は、大小乗のもろもろの戒行、五戒八戒、十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、梵網の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」という。かようのさまざまの戒品をたもてる、いみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに、真実報土には往生をとぐるなり。みずからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては、実報土にはうまれずとなり。

法話のヒント

・お風呂に逆さにした洗面器を静めると水は入って来ない。回りは見ずだらけなのに洗面器には水が入らない。
如来の慈悲のこころも回りに満ち満ちているのに、それに触れられないのは、グッと洗面器を押さえつけているからです。手を放して洗面器を傾けてやれば簡単に水を満たすことができます。

・お米を作るときに、米を作れば自ずと籾殻や藁も手に入る。藁だけをつくりたい、籾殻だけが欲しいといって、お米作りをおろそかにするようでは欲しいものも手に入らない。回心したい、信心が欲しいといってそれに執着しているようでは回りが見えていない。ただ念仏と仰せられた聖人の言葉が確かなことが、この喩えからもお分かりいただけると思う。

真宗が説いているのは、「米を作れば自ずと籾殻や藁は手に入るのだから、わざわざ籾殻だけを作ろうとか、藁だけを作ろうと思って稲作をしてはならない」ということなのだと思う。 吉峯 教範