仏教的ものの見方-仏教の原点を探る-森章司著 国書刊行会

仏教的ものの見方・生き方 いかにして「あるがまま」を「あるがまま」に見られるようになるか(8)(2007.7.5の続き全10回)
 ところが、欲望の充足を手放しに肯定しないで、少しでも反省の気持ちがあれば、他人の立場に立つことなんて、たわいもないはずである。車の邪魔にならないように、さっさと横断歩道を渡る、などということは何でもないことである。
 実は、これが「慈悲」の始まりである。「慈悲」とは、簡単に言えば「ひとの喜びを我が喜びとし、ひとの悲しみを我が悲しみとする」ということで、こういう気持ちになれば、「浄水珠が濁水を清めるが如く、慈悲は怒り・怨み・物惜しみ・貪りを除く」(『大智度論』巻20)と言われるように、自分の心も清まる。常識的には、私が覚りを得ないのに他を導くことはできないと思われるであろうが、それは必ずしも正しくない。他を導くことが自分の至らなさを自覚させ、他の仏性を発見してこそ、自分の仏性を蘇らせることができる。これを「自利利他円満」と言う。自分の幸せは、周りの人々が幸せになって初めて獲得できる。私が幸せにならないと、周囲も幸せになってくれない。「他人の不幸が私の幸せ」と言うのは、寄席芸人の受けんがための言葉であってほしい。
(9に続く)